リビア問題・内戦 |
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戦争(紛争)名 |
リビア内戦 |
戦争期間 |
2011年2月15日〜2011年10月23日 |
戦争地域 |
リビア |
戦争の結果 |
カダフィ政権の打倒と民主化 |
死者数 |
万人以上 |
国名 |
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
リビア共和国(2011〜) |
首都 |
トリポリ |
人口 |
642万人(2008年) |
公用語 |
アラビア語 |
宗教 |
イスラム教97% |
民族 |
アラブ人、ベルベル人、スーダン系黒人、ベドウィン族 |
主要産業 |
石油 |
備考 |
旧イタリア領。1951年独立 |
リビア内戦時(2011〜) |
リビア軍 |
←敵対→ |
リビア
国家評議会 |
カダフィ派部族 |
リビア人民軍 |
外国人傭兵部隊 |
反カダフィ勢力 |
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NATO軍
(フランス、イギリス、
イタリア、カナダ、
アメリカ、ノルウェー、
デンマーク) |
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UAE軍 |
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スウェーデン軍 |
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カタール軍 |
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ヨルダン軍 |
パンナム機爆破事件
リビアは1985年以降実行した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって空爆を受けるも、これに屈せず、その報復としてテロを計画した。
パンナム機爆破事件は1988年12月28日に発生した航空機爆破テロ事件で、ロッカビー事件とも呼ばれる。リビアがテロに関与し、国際問題に発展した。1988年12月21日、パンアメリカン航空103便は西ドイツのフランクフルトからロンドンを経由してニューヨークへ向かうフライトプランで航行。ロンドンまではボーイング727が使用され、ロンドンからニューヨークまではボーイング747-100が使用された。パンナム機はスコットランド地方のロッカビー上空を飛行中に、前部貨物室に搭載されていた貨物コンテナが爆発。爆発により機体は空中分解した。機体の残骸は広い範囲に飛散したが、両翼と中央胴体部分がロッカビー村の居住区に落下し、民家を巻き込んで大爆発して長さ47
m, 深さ9 mの大きなクレーターを残した。同機に搭乗していた乗員16名、乗客243名全員と、巻き添えになった住民11名の計270名が死亡した。乗客にはロンドン在住の日本人青年(当時26歳)も含まれていた。空中爆発および燃料の引火により、犠牲となった乗客のうち10人と住民11人はついに発見できずに終わった。
爆発物はセムテックスと呼ばれるプラスチック爆弾で時限爆破装置と共に日本製ラジオカセットレコーダーに偽装されて、貨物室に持ち込まれた。
墜落跡地の残留物などからリビア情報機関に属していたアブデルバゼット・メグラヒとアルアミン・カリファ・フヒマが犯人として浮上した。リビアは実行犯2名の引き渡しを拒否していたものの、一連の経済制裁により態度を軟化させ、1999年4月5日に国連代表に2人を引き渡した。また遺族には総額27億ドルの補償金支払いも約束した。
裁判の結果、メグラヒ容疑者は終身刑、後に癌で余命三ヶ月と宣告され、2009年には温情措置でリビアに送還。2012年5月20日に死亡した。フヒマ容疑者については証拠不十分で無罪判決となった。
なお事故を起こしたパンナム航空は爆破犯が判明したものの、この事件の経緯から同社が搭乗していない者の荷物を載せて就航したという保安上の重要な不備が発覚し、旅客と荷物の一致という原則に反して荷物検査を怠っていたことが判明。その為パンナム航空の幹部も刑事訴追されて有罪判決を受けた。パンアメリカン航空はこの事件後経営破綻した。
アラブの狂犬・カダフィー大佐 その強権的手法と非常なまでの対抗政策からアラブの狂犬と揶揄された北アフリカの独裁者で、大佐の称号は愛称として使われる。
1942年リビアの砂漠地帯に住むベドウィン族の子として生まれ、ムスリムの学校で初等教育を受ける。
エジプトのナセルが起こしたエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西欧社会への対抗と反イスラエル思想を抱く。
カダフィーは第三の普遍理論というイスラム社会主義と呼べる思想を掲げており、クーデターによる政権確立当初から西側との対決姿勢を鮮明にしていた。欧米諸国を帝国主義と呼称し、イスラム系テロ組織を国内で支援した。リビアが関わったテロは確認されているだけで100件を超える。1988年の米パンナム航空機爆破(死者270人)、1989年フランスUTA航空機爆破(死者171人)などが有名でこれに対して国連安保理は国外にあるリビアの資産凍結などの制裁が行われた。1983年にはチャドの内戦に介入。リビアの暴挙に対して当時のアメリカレーガン政権はカダフィー殺害を目的としたリビアの首都トリポリ空爆を行った。カダフィーは生き残ったものの彼の養女は死亡し、経済損失も膨大なものとなった。世界から孤立したリビアであったが事態を打開するために国内に確保していたパンナム機爆破の犯人2名を引き渡し譲歩を求めた結果、国連制裁は解除され国際社会への復帰を進めた。カダフィ大佐は武力闘争の終結を宣言したがアメリカは単独で経済制裁を持続。
政治体制は自らの出身部族で身辺を固める縁故政治を行い、少数民族や反抗的な民族には容赦のない弾圧を行った。
2001年のアメリカ同時多発テロが発生するとこれまでの反米姿勢を軟化させ、親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトしていった。
1980年代に世界最大のテロ支援国家として知られたリビアは西側との融和路線に転向しつつあったが、出身民族以外への差別や弾圧はその後も続いた。
経済面では原油利権を独占し、一時はイタリアのプロサッカーチームユベントスに一族の経営する会社が30億円の資本参加をし、第二位の株主となっていた。
2010年アラブの春による反政府デモが内戦を引き起こすと、NATO軍など多国籍軍の介入を招き、政権は崩壊。
自身も出身地スルトで捕らえられ、その最中に負傷し、一緒にいた四男アル=ムアタシム=ビッラーフ・アル=カッザーフィーと共に死亡した。
死の直後、カダフィの遺体についてはすぐさま埋葬するかしばらく冷凍保存するか、埋葬するにも場所はどこにするか、という点で議論が巻き起こった。イスラム教の戒律では死後24時間以内に埋葬しなければならないが、墓地を聖地化させない為にも埋葬地が話し合われた。結果的に埋葬地選出に時間がかかった為、10月21日から24日にかけてカダフィーの遺体がミスラタにあるショッピングセンターの冷蔵室に安置され、市民に公開された。
最終的に遺体は四男と共に砂漠地帯に秘密裏に埋葬された。死因については諸説あるが、配水管に隠れた後に外に出された際には生存している事が映像などで確認されている。 |
リビアの歴史とイスラム化
リビアは北アフリカにおける重要な交易地として栄え、その時代ごとに大国の支配を受けてきた。古代にはフェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国などの支配を受け、7世紀にはアラブ・ウマイヤ朝の支配を受けた際にイスラム化した。16世紀にはオスマン帝国に支配されるが1711年にトリポリ総督のトルコ人が自律し、カランマリー朝を立てると19世紀初頭にはアメリカ合衆国と第一次バーバリ戦争が勃発。その後にはフランスとイギリスがこの地域への干渉を強め、1835年にはオスマン帝国がリビアを再征服し、同年カラマンリー朝は滅亡した。1911年9月にはこの地を治めていたオスマン帝国とイタリアとの間で伊土(イタリア・トルコ)戦争が勃発し、同年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植を開始したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人を中心とした激しい抵抗が行われ、イタリアによるリビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。
第二次世界大戦になるとこの地域は北アフリカ戦線となり連合軍であるイギリス軍とナチスドイツ、イタリア軍が激戦を繰り広げ、戦後はイギリスとフランスの共同統治領とされた。
1951年には他のアフリカ諸国と同様に独立気運が高まり国連決議もあって1951年にはリビア連合共和国となり、1963年にはリビア王国となった。
カダフィーの台頭と冷戦期
平穏が続くかにみえた1969年9月1日、汎アラブを掲げるナセル主義者であった27歳のムアンマル・アル・カッザーフィー(カザフィー大佐)と青年将校達による無血クーデターが発生。北アフリカに事実上の独裁者カダフィー大佐を厳守とする実質的な独裁国家が成立した。
カダフィーはイスラム原理主義や社会主義、ナセル主義などを融合した独自の国家建設を目指し、対外的にはソビエト連邦の後ろ盾を得る事でその権力基盤を強化していった。1970年代から1990年代まで数々のテロを支援、実行した。リビアが関わったテロは確認されているだけで100件を超える。中でも1988年の米パンナム航空機爆破(死者270人)、1989年フランスUTA航空機爆破(死者171人)などが有名である。
リビア国内にはイスラム系武装組織を各国から呼び集め、戦闘訓練を施す専用の軍事キャンプが存在し、武装勢力のグループはそこで訓練を受け、リーダー達は連携や越境時の支援などのやりとりをした。この為、アメリカやイギリスなどの西側欧米諸国と敵対した。
また反イスラエルのアラブ最強強行派でもあった事から、イスラエルとの関係も問題となっていた。
これに対して国連安保理は国外にあるリビアの資産凍結などの制裁が行われた。1983年にはチャドの内戦に介入。リビアの暴挙に対して当時のアメリカレーガン政権はカダフィー殺害を目的としたリビアの首都トリポリ空爆を行った。カダフィーは生き残ったものの彼の養女は死亡し、経済損失も膨大なものとなった。世界から孤立したリビアであったが、事態を打開するために国内に確保していたパンナム機爆破の犯人2名を引き渡し、国際社会へ譲歩を求めた結果、国連制裁は解除され国際社会への復帰を進めている。カダフィ大佐は武力闘争の終結を宣言したが、アメリカは単独で経済制裁を持続。9月11日のテロでは米国の対テロ政策を支援するなどアメリカからの評価をあげていた。また歩み寄りのできないアラブ各国との政策協調を諦め、アフリカとの関係強化を図っていく。
リビア民主化革命・アラブの夜明け
冷戦と対テロ戦争を生き延びたかに見えたカダフィー独裁政権であったが、2010年チュニジアで起きた暴動に端を発したジャスミン革命が発生すると、アラブ、北アフリカ、中東諸国の間で次々と民主化運動が大発生。アラブの春と呼ばれる前例のない規模の民主化運動が開始された。チュニジア、エジプトなど30近い独裁政権が続く国家の政権が次々と倒れ、その波はリビアにも押し寄せた。彼らは携帯電話やスマートフォン、ソーシャルネットワークサービスなどを駆使し、誰も予想できない早さと規模でデモや反政府運動を展開した。同じ頃リビアでは2011年2月15日に発生した人権活動家の弁護士の釈放要求デモをきっかけにカダフィー大佐の退陣を求めたデモが国内で拡大。2月20日には首都トリポリにまで拡大し、この鎮圧を行った軍、警察、私兵部隊とデモ参加者の間で多数の死傷者を出した。カダフィーは一族と共にデモの徹底した鎮圧を行い、鎮圧には戦車や武装ヘリコプター、戦闘機までもが投入され、無差別攻撃が行われた。この事態に国内の反カダフィー派や軍部の民主派が離反し、リビアは事実上内戦に突入した。
この大規模弾圧に対し政府側からも多数の批判の声があがりはじめ、リビアの国連代表部を務めるイブラヒム・ダバシ次席大使はリビアが国民の大量虐殺という戦争犯罪を行っているという声明を出し、国連大使を除く国連代表団全メンバーがカダフィからの離反を宣言した。軍関係では2月21日に開始されたデモ隊への空爆に際して空軍機2機が命令を無視しマルタへ亡命。さらに空爆を拒否した戦闘機のパイロットが機外へパラシュートで脱出。同機体は砂漠に墜落するなどした。またカダフィーの親族からも亡命者などが続出した。反政府側が制圧した都市ベンガジでは一部の兵士が政府軍に反旗を翻して戦闘に参加し、独裁政権崩壊の兆しが一気に高まった。2月23日にはリビア東部が反政府派に制圧された。これに対しカダフィーは2月24日のテレビ演説で徹底抗戦を表明し、「神は指導者と人々に勝利を与える」とのメールを配信して求心力の維持を図った。
しかしスイス政府に資産の凍結などを実施され、2月26日にはトリポリ以外の全土を反政府側に掌握された。
カダフィ政権に反旗を翻し辞任したアブドルジャリル前司法書記がベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」の設立を宣言。カダフィー打倒に向けて国民に結束を呼びかけた。27日には国際連合安全保障理事会はリビアに対する制裁決議を全会一致で採択した。
3月になるとカダフィーの政府軍は反撃に転じ、戦局は一進一退の攻防となった。3月5日にはカダフィーの出身地であるスルトでも部族間の対立から戦闘が発生したものの、カダフィーは戦闘を継続した。制空権はカダフィーの政府軍にあり、反政府側は度重なる無差別空爆に苦しめられていた。これに対し、反政府勢力は飛行禁止区域の設定と、軍事介入を求めたが、アメリカ、ロシア、中国の足並みが揃わずにいた。
事態が動いたのは3月12日。アラブ連盟がリビアにおけるカダフィ政権の正当性を否定し、また飛行禁止空域の設定を支持する決定を行った。さらにカダフィー政権側がベンガジへの総攻撃と無差別殺戮をも辞さないと演説した事で、国連がリビアへの空爆を容認する採択を可決し、これにより、フランス、イギリスなどを中心とした多国籍軍の艦隊が空爆の為に派遣される。3月19日にはアメリカ軍によるオデッセイの夜明け作戦が実施され、100発のトマホーク巡航ミサイルを発射し空爆を支援。戦闘は地上を反政府軍が、制空権と空爆を多国籍軍が支配し、都市部にいるカダフィー軍との戦闘が継続された。
8月5日にはカダフィー大佐の五男ハミース・ムアンマル・アル=カッザーフィーがNATO軍の空爆により死亡し、15日には評議会軍の地上部隊が首都トリポリを完全に包囲した。
8月20日夜、トリポリ市内東部のタジューラ地区で銃撃戦が発生、市内の情報当局ビルや空港地区をすばやく占領した。包囲軍の一部も合流し、市内各所で明け方まで衝突が続いた。この首都攻略作戦は「地中海の人魚」と言われるトリポリにちなんで「人魚の夜明け作戦」と呼ばれた。
21日にはカダフィーの長男ムハンマド、次男サイフル・イスラーム、三男サアディーが相次いで降伏、拘束された。23日午前には、NATOの空爆を合図に地上軍がバーブ・アズィーズィーヤ地区に突入し、5時間に及ぶ戦闘の末に同地域を陥落させ、カダフィー政権は完全に崩壊した。
しかしカダフィー大佐は依然発見されず、国内ではカダフィー捜索が行われた。27日には首都奪還を達成した反政府軍が戦力の大半をスルト戦線へ投入した。28日にはスルトを包囲し、現地の部族長と投降にむけた交渉を開始した。30日には「9月3日までに投降しなかった場合は武力行使する」と最終通告を突きつけた。同日カダフィー大佐の七男ハミスが負傷し、夜になって死亡した事が分かった。10月20日にはカダフィの出身地スルトを制圧し、国民評議会はリビア全土を掌握。スルトに潜伏していたカダフィーは逃走しようとしてスルト市内の排水管に身を潜めた所を、反カダフィ派の者たちに発見され、排水管から引きずり出されて拘束された。拘束された際、カダフィは黄金製の拳銃2丁と自動小銃を持っており、カーキ色の制服を着用し、ターバンを巻いていた。
当初カダフィーは拘束の際の戦闘で負傷し死亡したとされたが、検視の結果、カダフィは頭に銃撃を受け死亡したことが確認されたと発表された。カダフィーは死後、上半身を裸にされ、血まみれになり、車で引き回される映像がアルジャジーラ放送を通じて放送されたが、直接の死因については偶発的或いは処刑など様々な憶測が飛び交っている。
カダフィーの死により、42年間続いたカッザーフィー政権は倒れ、一連の内戦は終結した。
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