ナイジェリア問題 |
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戦争(紛争)名 |
ナイジェリア民主化問題 |
戦争期間 |
2000年頃〜 |
戦争地域 |
ナイジェリア |
戦争の結果 |
継続中 |
死者数 |
1000人以上 |
国名 |
ナイジェリア共和国 |
首都 |
アブジャ |
人口 |
1億5472万人(2008年) |
公用語 |
英語他 |
宗教 |
キリスト教40%
イスラム教50% |
民族 |
ハウサ人、フラニ人、ヨルバ人、イボ人
他多数 |
主要産業 |
石油、農業 |
備考 |
旧イギリス領。1960年独立 |
ビアフラ紛争時 |
ナイジェリア軍 |
←敵対→ |
ビアフラ軍 |
イギリス |
フランス |
ソビエト |
中国 |
民族紛争 |
ナイジェリア軍 |
←敵対→ |
ボコ・ハラム |
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MEND |
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ビアフラ戦争
アフリカ最大の人口を抱える国家ナイジェリアは250以上の民族と言語が混在するアフリカ最大の多民族国家である。かつては奴隷の輸出を行った事からこの地域一帯の沿岸部は奴隷海岸と呼ばれた。
北部はイスラム教、南部はキリスト教を信仰する。石油輸出国機構(OPEC)加盟国で豊富な油田を持つ。公用語は英語で1960年にイギリスから独立。
その後不安定な状態が続くが、1967年7月にはイボ族を主体とした東部地域がビアフラ共和国として独立。これに端を発し内戦となった。ナイジェリア政府軍はビアフラ政府軍と軍事衝突した他、イギリスやソ連に支援を受けたナイジェリアとフランス、中国に支援を受けたビアフラ政府の図式で1970年まで戦闘が継続された。戦闘に伴う飢餓や疫病で死者は150万人以上出たとされている。
ビアフラ戦争は最終的にイボ族側の敗北に終わったもののこの後も民族間の軋轢を生んでいく。
民族問題
ナイジェリアは独立以来クーデターが多発し1966年にはゴウォン軍事政権が樹立したが1975年、1976年にもクーデターで政権が転覆する。
民族問題では北部民族と南部民族の宗教対立が根深くイギリス時代から続く北部重視政策により軍人の大半が北部出身でクーデターの際には南部出身の軍人などが粛正された。
1977年に憲法が改正され1979年には占拠で選ばれたシャガリ大統領が就任し民主化を実現。ところが1983年に再び:クーデターが発生しババンギダ政権が誕生。1993年には大統領選挙が行われたもののその際に落選したババギンダ元大統領は選挙に不正があったとして選挙の無効を宣言。ババギンダ大統領への反発から国防相のアバチャが11月に無血クーデターを成功させ暫定統治議会(PRC)を発足させる。アバチャ政権は民主化の象徴であったアビオラ氏を逮捕するなど軍事色を濃くし反政府勢力を激しく弾圧していった。事態が変わるのは1998年。アバチャPRC議長が死亡し後継者のアブバカル議長が民主化の要求の高まりに対して民主化移行プログラムを発表。選挙の結果オバサンジョ大統領が誕生した。オバサンジョは軍部出身とはいえ民間移行を実施しており、1999年には完全に民政移管を果たした。
しかし他民族国家ならではの資源、民族、宗教問題を抱え続けており、2009年7月にはハウサ族中心のイスラム急進派ボコ・ハラムが北部にある警察署などを襲撃し大規模な軍事衝突が勃発した。
ボコ・ハラムは2002年にモハメド・ユスフによって結成されたイスラム急進派の武装組織でシャリーア(イスラム法)による国家統治を目指しており、2009年8月にはジハードを宣言し政府に攻撃を続けている。2009年7月には指導者のユスフが射殺されたものの、国際テロ組織アルカイダとの連携もしており、動向が注視されている。この一連の戦闘では700人以上の死者を出している。
この他中心都市のジョス周辺ではキリスト教徒とイスラム教徒が互いの家を襲撃しあう事態に発展。数百名の死者を出している。更に南部ニジェール川河口の油田地帯では武装勢力ニジェールデルタ解放運動(MEND)が活動を行っている。MENDは石油資本や政府への攻撃を主として行っており、技術者の誘拐、殺害や政府関係者への攻撃を行っている。
2009年5月にはナイジェリア政府軍がMENDの拠点への攻撃を行い一定の効果をあげ、2010年には武装解除を条件にした恩赦を条件に一時的に停戦となった。しかし2010年10月には停戦を破棄し首都アブジャなどで爆弾テロを実施。犯行声明を行った。2010年12月にはキリスト教徒を狙った連続爆弾テロが発生し依然余談を許さない状態となっている。
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