ルワンダ内戦・ブルンジ内戦
戦争(紛争)名 ルワンダ内戦
戦争期間 1990年10月-1993年8月4日
戦争地域 ルワンダ
戦争の結果 ルワンダ愛国戦線の勝利。内戦の終結
死者数 170万人以上

国名 ルワンダ共和国
首都 キガリ
人口 999万人(2008年)
公用語 ルワンダ語
フランス語
英語
宗教 ローマカトリック56.5%
プロテスタント26%
民族 フツ族84%
ツチ族15%
トゥワ族1%
主要産業 農業、スズ、タングステン、天然ガス
備考 2009年よりイギリス連邦所属

ルワンダ内戦
ルワンダ軍
(FAR)
←敵対→ ルワンダ愛国戦線RPF
フランス陸軍 ウガンダ軍
(RPDF)
ザイール大統領特殊師団
(1990-1991)

ルワンダ大虐殺
ルワンダの大虐殺はフツ族とツチ族の内戦がピークに達した1994年4月6日に発生したジェノサイド(大虐殺)である。ルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領シプリアン・ヌタリャミラ大統領の乗った航空機撃墜(暗殺)からRPFがルワンダを制圧するまでの100日間にフツ系政府とそれに同調する過激派フツ族によって多数のツチ族と穏健派フツ族が殺害された。この虐殺による死者数は100万人とも言われルワンダ全国民の20%が失われたとされる。
ルワンダの大虐殺は非常に組織的に行われ、事前に周到な準備がなされていた。各地域にはそれぞれ役割を持った代表者が選出されており、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。 また民兵は簡単な手続きを行うだけでAK突撃銃や手榴弾を入手できた。
当時の閣議ではツチ族の虐殺計画が公然と語られ民族の完全浄化を主張する者さえいた。
この虐殺をさらに助長したのがベルギー政府が植民地時代の1930年代に支給していた出身民族が記載されたIDカードがあった。このIDカードがルワンダ虐殺の際にインテラハムウェが出身民族をチェックする指標の1つとなった。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた。
この虐殺の実行者には多くの軍関係者、政府関係者、市長、警官が含まれ、各地域で多くの虐殺者を指揮し、大抵は若者が虐殺を行った。
さらにはメディアプロパガンダを利用し、テレビやラジオでは殺戮を煽った。その一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行ってしまった。
なお虐殺の最大の実行者であった民兵組織インテラハムウェやインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなく原始的なナタや現地で使用されている粗末な刃物で虐殺を行ったとされ、その凄惨さを物語っている。


ホテル・ルワンダ
1994年ルワンダ大虐殺が行われる最中、ルワンダの首都キガリにあるホテル「オテル・デ・ミル・コリン」の副支配人ポール・ルセサバギナが1268人の人々をホテルに匿い救った。この行為は国際的に賞賛され、自伝「An Ordinary Man」を元にホテルルワンダとして映画化された。ポール・ルセサバギナ自身は父親がフツ族、母親がツチ族であった。
ルワンダ軍や民兵からツチ族やフツ族穏健派を守り、「アフリカのシンドラー」とも呼ばれている。2005年にはアメリカ合衆国大統領自由勲章を授与されている。
アフリカ中央部に位置するルワンダとブルンジは多数民族のフツ族と少数民族のツチ族が民族紛争で対立。1994年にはルワンダで大虐殺が発生し、3ヶ月間で100万人のツチ族が虐殺された。また1993年から98年の内戦で20万人が死亡し、難民の数はルワンダで250万人、ブルンジで50万人に達している。
ルワンダとブルンジは1962年にベルギー領から独立しているが、両部族は本来17世紀ルワンダ王政下で支配、被支配関係にあった。
 一般的に牧畜民のツチ族(少数派民族)が農耕民族のフツ族(多数派民族)を支配してきたとされており、少数民族の多数民族に対する支配体制が長年続いていた。住民は長年所属する部族を記述した証明書を持ち、その結果差別や弾圧を受けていた。
これら民族紛争の原因は植民地時代の負の遺産を放置した西側社会に責任が大きく、対応が急がれたが国際社会の対応が遅れ被害が拡大化し、大量虐殺に発展した。国連のアナン事務総長も両国の件に対する対応の不備を釈明、またアメリカのクリントン大統領も対応の遅れを指摘した。一連の内戦は周辺国へも波及しコンゴ、ウガンダなども不安定な状況に追い込んでいる。

ルワンダ内戦
ルワンダは第一次世界大戦まではドイツが支配し、その後ベルギーの植民地となった。ブルンジと同じく1962年7月ベルギー領から独立。フツ族90%、ツチ族10%と圧倒的にフツ族が多いもののその支配はツチ族中心に行われてきた。
独立直前の1962年にベルギーとツチ族との関係が悪化した事からベルギー政府は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した。この結果、少数のツチ族は報復を恐れてウガンダなどの近隣諸国へ脱出した。

1973年7月に多数派フツ族によるクーデターで軍事独裁政権が誕生すると、ツチ族に対する弾圧や虐殺がはじまり内戦が激化。
同年には少数派のツチ族が組織するルワンダ愛国戦線(RPF)は隣ウガンダを拠点に兵力を増強し、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。RPFは、1990年にはルワンダ北部に侵攻し内戦が勃発した。
1993年にはルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりによりアルーシャ協定が結ばれ和平合意に至ったものの、1994年にルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのヌタリャミラ大統領の両名が乗る飛行機が墜落し死亡した。この飛行機の墜落は何者かの攻撃による撃墜であるとした発表を切っ掛けに内戦と虐殺が激化する。
1994年4月6日にはいわゆる「ルワンダ大虐殺」が発生し、フツ族武装民兵やフツ族市民により3ヶ月間で100万人のツチ族が殺害された。
同年7月にはRPFがツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、ツチ族のパステール・ビジムング大統領がツチ族のポール・カガメ副大統領と共に新政権を樹立。内戦は終結となった。
一連の内戦と虐殺によりフツ族は周辺国に難民として250万人以上が流出した。
この中には報復を恐れ国境地帯に潜伏したフツ族武装集団もおり彼らは度々国境を越えツチ族の集落に攻撃を加えゲリラ活動を続けた。
現在虐殺に関する容疑者は国内裁判及び戦犯法廷にかけられているが、容疑者だけでも10万人を超える事からその処理が長引いている。また現在でも公開処刑や散発的な虐殺は続いておりさらにこの民族対立は隣国のウガンダ、ザイールなどにも波及した。
ツチ族の新政府はフツ族難民に帰還を呼びかけているが報復を恐れる難民の帰還は進んでいない。1995年11月に周辺4ヵ国が難民帰還を目的とした合意文書に調印する100万人以上の難民が帰還を果たし収束に向かい僅かな希望を見せている。
これら内戦の一因にはフランス政府が大きく関係していた。フランス政府はフツ族への援助を組織的に行い、フランス軍の展開、武器援助等を行った。一方で、アメリカも早くからルワンダ愛国戦線に接近しており、内戦が本格化する以前からポール・カガメと接触していた。

ブルンジ内戦

ブルンジは人口723万人。首都ブジュンブラを中心に鉱物資源やコーヒーを産業にしてきた。1962年にムワミと呼ばれる国王を国家元首としてルワンダと共に独立。以降ルワンダ同様のツチ・フツ民族問題を抱える。1966年に最後のムワミが廃されて王制が廃止されるとミシェル・ミコンベロ大統領が初代大統領となり共和制へ移行した。その後、少数民族のツチ族による支配に不満をもつフツ族が、1972年に反乱をおこし1万人のツチ族を殺害する事件が発生する。この事件の報復として同年4月から10月にかけてツチ族系の軍隊がフツ族10万人を殺害するという事件につながった。
1987年には国軍による無血クーデターが発生し、ツチ族のピエール・ブヨヤ政権が発足。1993年6月の民主化選挙でフツ族(多数派)主体の政権が誕生した。ブヨヤ政権は民族融和を推進するが、民族間の抗争を止めることはできなかった。
1993年には複数政党による選挙を実施し、フツ族のメルシオル・ンダダイエ大統領が就任するが同年10月にはツチ族将校を中心とした軍事クーデターが発生し大統領は暗殺。クーデターは失敗に終わるも、ンダダイエ大統領は暗殺されてしまい各地で内戦が激化。
1994年4月にはツチ族同士の大統領であったルワンダ大統領と同乗した飛行機が撃墜され、両大統領が死亡するとルワンダでも各地で内戦が激化した。
その後民族間の報復合戦が続くが1996年7月にはブヨヤ大統領がクーデターを起し再度政権を樹立するが、
国連、アフリカ統一機構の双方がこの政権を認めなかった。またブルンジに対して経済制裁が行われた。経済制裁は1997年には緩和され、1998年からはフツ、ツチ双方の和平交渉が始まった。
1999年1月にはアフリカ統一機構が制裁解除を採択した。この間内戦による犠牲者は20万人を超えた。
1997年以降ブルンジではタンザニア政府の仲介で和平会議を進め2000年9月には南アフリカのマンデラ前大統領によってアルーシャ和平合意の和平協定調印を行い、各派が調停に参加した。しかしコンゴに拠点を置く民主防衛国民会議(CNDD)やタンザニアを中心に活動するフツ族開放党(PALIPEHUTU)が調停を拒否しゲリラ戦を展開。
ルワンダよりも遥かに長期化した内戦は2003年に近隣諸国の仲介で和平協定が成立した。各民族の武装組織は政党化し総選挙を経て2005年8月に挙国一致のピエール・ンクルンジザ大統領政権が発足。2006年には残った武装勢力とも停戦を行い、2008年12月5日、ブルンジ政府とFNLとの間に正式な和平と権力分担が合意され一連の内戦は終結した。

戦争(紛争)名 ブルンジ内戦
戦争期間 1972年-2008年
戦争地域 ブルンジ
戦争の結果 統一政府の勝利
死者数 20万人以上

国名 ブルンジ共和国
首都 ブジュンブラ
人口 830万人(2008年)
公用語 ルンディ語
フランス語
スワヒリ語
宗教 キリスト教67%
土着宗教23%
イスラム教10%
民族 フツ族85%
ツチ族14%
主要産業 農業、コーヒー、綿花、茶、砂糖
ウラン、銅、コバルト、ニッケル
備考 1962年ベルギーより独立
2009年よりイギリス連邦所属


ブルンジ内戦
ブルンジ軍 ←敵対→ 民主防衛国民会議
(CNDD)
フツ族開放党
(PALIPEHUTU)