ソマリア内戦
戦争(紛争)名 ソマリア内戦
戦争期間 1982年〜現在
戦争地域 ソマリア
戦争の結果 継続中
死者数 30万〜40万人以上

国名 ソマリア
首都 モガディシュ(モガディシオ)
人口 913万人(2008年)
公用語 ソマリ語
スワヒリ語
バントゥー語
アラビア語
英語(旧ソマリランド)
イタリア語
その他少数部族言語
宗教 イスラム教スンニ派95%(国教)
その他 5%
民族 ソマリ人(族)
ディアスポラ他
主要産業 農業、バナナ、畜産(ラクダ、羊、ヤギ)
備考 旧フランス領ソマリランド
旧イギリス領ソマリランド
旧イタリア領ソマリランド
保護領、信託統治領を経て独立。

交戦勢力(オガデン戦争 1977-1988)
ソマリア ←敵対→ エチオピア
ルーマニア(支援) キューバ
中華人民共和国
(支援)
東ドイツ(支援)
アメリカ(支援) 北朝鮮(支援)
ソビエト連邦
南イエメン

交戦勢力(1982-1991)
ソマリア ←敵対→ 統一ソマリア会議
(USC)

交戦勢力(1991-1999)
アイディード派 ←敵対→ アメリカ軍
国連多国籍軍
ソマリランド

敵対

敵対
モハメド派
アリ・アト派

交戦勢力(2000-)
ソマリア暫定政府
(TFG)
←敵対→ イスラム連合(AIAI)
エチオピア イスラム法定議会
(ICU)*既に消滅
アメリカ軍(空爆・海上警備) ソマリア再解放連盟
(ARS)
ARPCT同盟*既に消滅 アル・シャバブ
NATO軍及びNATO同盟軍 アルカイーダ
ケニア軍 ムジャヒディン勢力
エルトリア軍
海賊

敵対

敵対
ソマリランド
プントランド
南西ソマリア(ラハンウェイン革命軍)*既に消滅
ジュバランド軍
マーヒル*既に消滅
ガルムドゥグ
ノースランド国
その他地方氏族

オガデン戦争(1977-1988)
オガデン戦争は1977年に開始されたエチオピア、ソマリア間の戦争で、オガデン紛争、アフリカの角戦争などと呼ばれる。1970年代大ソマリ主義の台頭で、ソマリア周辺国(ケニア、エチオピア、ジブチ)に居住するソマリ族が分離独立運動を行う。特にエチオピア国内のオガデン地方での分離独立運動は激しく、ソマリア軍は1977年7月13日に兵士70000人、航空機40機、戦車250輛、装甲車350輛、火砲600門を用いて侵攻を開始した。この戦力は当時のソマリア軍全軍といって良い規模で、紛争のレベルを超えていた。この侵攻によりオガデン地方の60%を掌握したソマリア軍であったが、ソマリア軍の用いるMIG19戦闘機に対してエチオピア軍のF5戦闘機は優位に戦闘を行い、制空権を奪還。その後はエチオピア軍が制空権を維持した。
この危機に対してエチオピアはその支援元であるソマリア本国に直接攻撃を行う決定をした。当時皇帝を廃位し社会主義化していたエチオピアにはソ連、キューバ、東ドイツなどが支援を行い、対する形でアメリカやソマリア寄りのケニアがソマリア軍に支援を行い他のアフリカ諸国と同じく、代理戦争となった。戦争は長期化していくが、1983年にはエチオピア軍がソマリア領内に逆侵攻を果たし、ソマリアは大きく衰退する。この後冷戦と大ソマリ主義が下火となる中でソマリアは内戦に突入。結果戦闘継続が困難となり、1988年に停戦合意した。この戦争によってソマリア人のエチオピア軍に対する拒否反応は根深くなり、ソマリア内戦以降度々介入するエチオピア軍に不満を募らせる事になる。


モガディシュ(ブラックシー)の戦い
1993年8月末、度重なる国連軍の被害からアメリカ軍特殊任務部隊「タスクフォースレンジャー」がアディード将軍幹部の逮捕及び秩序回復を行うために派遣される。デルタ、レンジャー、SEAL、160SOARなどで構成された特務部隊は当初3週間で任務を終える予定であったが、作戦は難航していた。
1993年10月3日。アイディード将軍の潜伏地点を突き止めた特務部隊「レンジャー」はモガディシオに奇襲作戦を開始。1時間で終了するはずの任務であったが予想以上のソマリア民兵の反撃に遭い、特殊部隊の運用するブラックホークヘリコプターが撃墜。大規模な市街戦に発展する惨事となり多くの犠牲を出し作戦は失敗に終わった。この結果アメリカ軍及び国連軍は1995年3月にソマリアから完全撤退。その後アイディード将軍は大統領就任を宣言するがその翌年に暗殺される。この展開によりソマリアの情勢は好転するかに見えたがアイディード将軍の子息であるフセイン・アイディードがアイディード派の後継者となった事で事態は混沌としていく。1997年には無政府状態の中停戦が発効されるが現在も戦闘は止んでおらず現在でも実行支配する氏族もでてきていない。この内戦でソマリアでは50万人が餓死し周辺諸国へ脱した難民は100万人に上っている。
モガディシュの戦いはその凄惨な事態に陥った結末をそのままにハリウッドで「ブラックホークダウン」として映画化されている。一部史実と異なる部分もあるものの、ベトナム戦争以降では最大とされるアメリカ軍の市街戦の模様を描き出している。


2011年現在のソマリア勢力図
団体(国名) 勢力地域 支援国
暫定政権 モガディシュ及び
ソマリア南部
アメリカ
エチオピア
ジブチ
プントランド
(1998〜)
首都ガローウェ
ソマリア北東部
ソマリランド共和国
(1991〜)
首都ハルゲイザ
北部
アル・シャバブ
(2008〜)
モガディシュ外周
南部沿岸地帯
ジュバランド
アルカイーダ

海賊問題
 ソマリアの海賊は内戦が激化していく1990年代初頭から徐々に発生し、2000年代に被害が大きくなった問題である。ソマリア北東部の海域はアフリカの角地帯とアラビア半島に挟まれた立地で、インド洋からアデン湾、紅海、スエズ運河に向かう国際海運上の重要エリアである。通行する船舶は年間約2万隻で主に商船が往来する。ソマリアの海賊は内戦で無政府状態の国内を利用し、この付近一帯で活動している。
 海賊は小型ないし中型の高速艇を使用した数名から数十名のグループで行動し、AK自動小銃やRPGロケットランチャー、機関銃で武装しており、貨物船やタンカーを襲撃する。多くが漁船などに偽装している為、接近されるまで発見が困難な場合が多い。海賊は船そのものを拿捕し、乗組員の身代金を要求する手法がとられている。これら海賊は元々漁民である事が多く、本来はマグロ漁などで外貨を獲得し、生計を立てていたが、無政府状態のソマリアでは輸出手段が無くなった為、海賊行為に及んでいる者が多い。また、同地域にプントランドが国家宣言されると、国内の有力氏族の持つ私兵が、アフガニスタンとの麻薬密輸などを始めており、これらの中にはイギリスの民間軍事会社ハートセキュリティ社に訓練を施された私設海上警備隊も海賊行為に及んでいるとされている。対岸国のイエメンにアフガニスタンから密輸した麻薬の販売ルートを確保し、沿岸の往き来を行っている事から、イエメンを拠点にする海賊も多数現れた。
 2008年以降は組織化された軍閥や氏族グループなどが海賊団を組織し、規模は肥大した。
海賊の人質になった船員は2008年までに580名に及び、度重なる被害に保険会社が保険金を引き上げた事から、海運コストの上昇を招き、また同海域を避けて運行せざるを得なくなった船舶も燃料コストと移動時間の上昇をまねいてる。
事態を重く見た国連は2008年6月に安保理決議を行い、同海域に各国の警備艇や艦船を送り込み、海賊に対して武力行使を行う決定をする。以降アメリカ、イギリス、ロシアを含む各国の艦艇が同海域に配置され、戦闘、鎮圧が行われ、一定の成果を出しているものの、これ以降も海賊被害は続き、さらには軍艦を避ける為に海賊の活動範囲がインド洋にまで拡大させる結果になっている。


海賊ビジネス
 海賊による人質被害が多くなる一方で、沿岸部の街では海賊の為のビジネスが盛んになった。これらは主に人質への食料供給や軟禁の為の宿泊施設を提供するというもので、会計士事務所、運転手、建築業、人質への食事供給ケータリングなど様々なサービス企業が成立している。海賊らは身代金で豪邸を建て、その暮らしぶりは現地の憧れとなっている。
 上記にもある通り、人質は大切な商品として扱われる為、拿捕された海賊船の中には、人質への扱いや暴行などの禁止を記載した取り扱いマニュアルを持つ船も存在した。彼ら海賊の多くは生活のために活動している者が多く、虐殺やテロリズムを目的に海賊行為を行っている者は少ない。2008年11月22日には、サウジアラビアのタンカーシリウス・スター号が海賊に拿捕されるが、これに対してイスラム原理主義グループが救出作戦を行う等して海賊と原理主義勢力の対立も起きている。


ソマリアの氏族分布(2000年頃)
ソマリアの歴史と独立
アフリカ大陸北東部、インド洋に突き出た土地周辺を領土とするソマリアはアフリカの角と呼ばれている。遙か紀元前から古代エジプトとの交易があり、この一帯を治めるプント国として知られていた。10世紀〜14世紀頃にはアラビア半島南部から遊牧民のソマリ族が移住を開始し、現在の民族体系に近くなっていく。彼らはアラブやペルシア国家と交易を行っていくが、1886年にはイギリスがこの地域の北部をイギリス領ソマリランドとして領有し、南部はイタリアの保護領となった。第二次世界大戦では南部のイタリア領ソマリランド等からイタリア軍が侵攻し、全土を占領した。第二次世界大戦後の1948年には北部が再びイギリス保護領となり、1950年には南部がイタリア信託統治領ソマリアとなった。1960年7月1日にはそれぞれ大国の領土となっていたソマリランドが統合する形で独立宣言を行い、アフリカの国家としては希なほぼ単一民族の国家が誕生した。
1969年10月15日、アブディラシッド・アリー・シェルマルケ大統領が暗殺され、その数日後には軍事クーデターによりモハメド・シアド・バーレ少将が主導する軍部が実権を掌握した。以降社会主義国家を宣言した。

しかし元来のソマリアは氏族(クラン)という独自の社会形態を持っており、各氏族の下にはさらに複数の小氏族が連なる社会を構築していた。この為、ソマリア民族は元来政府を持たず氏族に属する小氏族、支族がそれぞれ権力を持ち生活を維持してきた。

大ソマリ主義と内戦の拡大
ソマリア氏族は19世紀後半までに現在のソマリア国境よりも広い領土を持っていた。その支配範囲は現在のジプチやエチオピア、ケニアにまで分布していた。20世紀にイギリス、フランスなどが彼ら氏族領地を分断して保護領としたが、1960年に独立国家ソマリアが誕生すると、これら国外の氏族の領土を糾合しソマリ族の国家「ソマリランド」を建設するという「大ソマリ主義」が台頭していく。1977年には隣国エチオピアの革命に乗じてオガデン地方に侵攻するオガデン紛争などを引き起こし、周辺国との軋轢を生む。

1969年に発生したクーデター後にバーレ政権が誕生するとソマリア社会主義革命党による一党独裁体制が行われ、ソマリア民主共和国が誕生する。バーレ政権は社会主義革命を実行し、ソビエトの後押しを得て、外国企業を国有化するなど強権を発動した。更に自らの属するマレハン氏族以外を弾圧していく。この為、他の氏族の反発を招き、1980年代に入ると地方を中心に反政府闘争が開始されていく。1989年には首都と一部の支配地域を除いて全土がUSC(統一ソマリア会議)の支配下に置かれ、1991年1月にはハウィヤ族が率いる反政府勢力のUSCが首都モガディシオを制圧。バーレ大統領を追放するに至った。バーレ大統領はナイジェリアに亡命したものの1995年には死亡した。

 首都を制圧したUSCは暫定大統領としてアリ・マハディ・モハメドを選出するが、暫定政府発足と同時に内紛が多発した。この間隙を縫う形で、1991年6月にはイサック族が主導するソマリア国民運動(SMN)が北部旧英国領をソマリランド共和国として独立を宣言。南北ソマリアが分断された。USC内部ではこの時期、軍部の実権を握るモハメッド・ファッラ・アイディード将軍と暫定大統領の対立が起こり、モハメド暫定大統領は首都を脱出。
アイディード将軍派はその後武装勢力を糾合し、ソマリア国民同盟(SNA)を結成。南北分断と相俟って内戦が激化。国民は飢餓状態に陥り人道支援の必要性が叫ばれた。1991年12月にはモハメド暫定大統領が国連に対してPKO部隊の派遣を要請した。

国連軍の派遣と情勢の悪化
 1992年12月、国連は内戦と飢餓に苦しむソマリアでの人道支援を目的として国連ソマリア活動(UNOSOM)を開始。アメリカ海兵隊を中心とした多国籍軍を派遣し、希望回復作戦(OPERATION RESTORE HOPE)を開始した。また、国連の仲介で和平会議を呼びかけるが、首都モガディシュを中心に実権を握るアイディード将軍派のSNAは強硬な姿勢を維持し武装解除を拒否。食料や医療品などの人道支援物資の略奪を開始した。
 1993年5月には国連憲章の定める武力行使を認めた平和執行部隊のUNOSOM IIが展開されるが、これに対してアイディード将軍は国連軍への宣戦布告を行い、パキスタン兵24名が殺害されるなど被害は拡大した。この事態を打開するためにアメリカ軍特殊部隊を中心とするタスクフォースレンジャーが、アイディード派幹部の逮捕と組織の弱体化を狙って1993年10月3日に強襲作戦を実施した。しかしこの戦闘中に二機のブラックホークヘリコプターが撃墜され、投入された特殊部隊はその乗員の救助に追われ、僅か30分で終了するはずの作戦が、大規模な市街戦闘(モガディシュの戦い)に発展。アメリカ軍と救助に来た国連軍に19名の戦死者を出し、73名の負傷者、捕虜1名を出した。またこの作戦が露見すると、ニュース映像で作戦に参加した米兵の遺体を損壊させ市中を引き回す映像などが流され、世界中が大きな衝撃を受けた。
多くの犠牲者を出したアメリカ軍はこの事態に撤退を決意し、1995年3月には最後の国連軍もこれに追従する形で無政府状態のソマリアから撤退した。

国連軍が撤退するとアイディード派の財政を担っていた実業家のアリ・アトが離脱し、SNAが分裂。アリ・アト派は他の武装勢力13派と共闘する形でアイディード派と戦闘を行った。1996年8月には砲弾による攻撃でアイディード将軍が死亡。将軍の実子で元アメリカ海兵隊出身のフセイン・アイディードがSNA後継者となった。アイディード将軍の死を切っ掛けにケニアが停戦協議に乗り出すが、失敗に終わっている。

1997年12月にはモハメド派、アト派、アイディード派と武装勢力28派がエジプトのカイロで無条件停戦などを定めた和平協定に調印したが、各派の意見対立により、その後の会議は開かれなかった。
1998年7月には北西部の氏族が自治国家プントランド共和国の樹立を宣言。隣国ではエチオピア・エルトリア紛争が勃発する。エチオピアはエルトリアへの不安定化工作の為に、ソマリアのラハンウェイン抵抗軍(RRA)に軍事援助を行っていた為、この機に乗じて南西部の要衝バイドアを1999年6月に制圧した。

2000年5月には隣国のジブチで和平会議が開催され、暫定大統領、暫定首相、暫定議会を発足させた。この結果暫定大統領に元内相のアブディカシム・サラ・ハッサンが就任し、首相にはアリ・カリフ・ガライド元工業相を指名した。しかしアイディード派及び有力氏族はこの政権をジブチの傀儡政権とし承認せず、内戦が継続された。2001年10月にはガライド首相の不信任案を可決し、新首相にハッサン・アブシール・ファラが就任した。これに対して暫定政府を承認しないソマリア和解再生評議会SRRCはバイドアを首都とする南西部自治政府「南西ソマリア」の樹立を発表。自治政府の大統領にはSRRCの議長の一人ハッサン・モハメド・ヌル・シャティグドゥドが就任した。
2002年にはケニアで起きた同時テロにソマリアのイスラム原理主義組織アル・イッティハド・アル・イスラミ(AIAI)が関与したと指摘され、これを端に統治機構は崩壊した。

アイディード4月にアメリカ海兵隊が撤退するとアイディード将軍は国連軍に対して宣戦を布告。6月にはパキスタン軍の兵士24人がアイディード派の民兵に虐殺され以降モガディシオを中心にアメリカ軍、国連軍を狙った攻撃が激化していく。
2004年には2003年8月に首相に就任していたムハンマド・アブディ・ユスフがプントランド新大統領に選出された。この暫定議会にはアイディード派からフセイン・アイディードが副首相兼内相として就任した他、アリ・アト派からもアト自身が住宅・公共工事業相として就任した。また南西ソマリアからはシャティグドゥド大統領も農相として就任した。しかしこの暫定連邦政府にソマリランドは参加していない。

エチオピア軍の侵攻
2006年12月6日国連安保理はソマリアへの8000人の国際平和維持部隊派遣を採択したが12月にはイスラム法定連合が暫定政府の拠点バイドアに攻勢をかけ、同月20日にはバイドアに展開していたエチオピア軍と戦闘に入った。イスラム法定会議は1994年から活動を活発化させたイスラム法定連合を前身に持つイスラム勢力で、内戦下の南部ソマリアで自警団として活動し、急速に国民の支持を拡大した組織で、2006年6月には首都モガディシュを占領していた。しかし国際テロ組織アルカイーダとの連携やイスラム原理主義を標榜する点などから暫定政権を推すアメリカとは対立していた。イスラム法定連合は隣国エチオピアとエルトリアの紛争の中、イスラム教を国教とするエルトリアから支援を受ける形で活動を行っていた。これに危機感を持ったキリスト教国のエチオピアは秘密裏にバイドア周辺に部隊を送り込み、この地域をイスラム原理主義から防御する政策を執った。2006年7月にはバイドアに数千人規模のエチオピア軍が展開し、国連決議を無視する形で暫定政権軍への武器供与を実施した。これに対してアフリカ連合は撤退を求めるもアメリカが駐留を支持し、駐留はこの後も続いていく。
12月24日にはエチオピア軍がソマリアへの派兵を認め、同時に航空機とミサイルによってイスラム法定連合への攻撃を行った。これに際し、エチオピア政府はイスラム法定連合との戦争状態突入を認め、これが対テロ戦争であると位置づけ、同時に国連、アフリカ連合、EUによる和平活動を支持した。
同日にはエチオピア軍によるモガディシュ空爆が開始され、エチオピア地上軍15000人とソマリア暫定政権軍もモガディシュへ侵攻を開始した。28日にはモガディシュを包囲したエチオピア、暫定政権軍が北部と西部から侵攻し、大規模な市街戦に発展。1000人以上の死者を出した法定連合はモガディシュを放棄し、暫定政府は遂に首都モガディシュを制圧するに至った。
2007年1月1日には法定連合の拠点であった沿岸部の街キスマユに対して攻撃を加え、法定連合はケニア国境付近に逃走した。この一連の戦闘にはアメリカ軍特殊部隊の隊員がアドバイザーとして随伴していた。
またこの時期を前後しアメリカ軍は秘密裏に暫定政権を支援する為に艦隊を派遣。さらにジブチに展開していたAC130攻撃機も投入され、アルカイーダ構成員等の殺害を行った。殺害されたアルカイダメンバーの中には1998年に起きた米大使館爆破事件の容疑者も含まれているとされた。
エチオピア軍は1月7日に最後の拠点であるラスカンボニへの攻撃を行い、5日後には制圧に成功した。これ以降ソマリア国内ではイスラム法定連合による小規模な攻撃が行われた。

PKO部隊の再展開とアル・シャバブの台頭
2007年3月にはAU(アフリカ連合)から最初のPKO部隊としてウガンダ軍1200人が展開を開始。しかしその他の参加表明国はソマリアの情勢不安を理由に派遣を見送り続けた。
一方アメリカ軍はこの間に積極的な情報収集を行い、5月31日には法定連合の残党が北部沿岸に陣地を構築しているのを発見。6月1日にアメリカ海軍の艦艇が5インチ砲よる攻撃で陣地を破壊した。
PKO部隊の足並みが揃わない中、首都モガディシュを中心に武装勢力の攻撃が激化し、これに対応する形でエチオピア軍が3月29日より掃討作戦と空爆を開始した。この戦闘は、内戦以来最も激しいものとなり、僅か4日間の戦闘で死者1000人、負傷者4300人を出した。またエチオピア軍もヘリを撃墜されるなど相応の被害を出している。
12月に入ると1700人のブルンジ軍がPKO部隊に加わる事が発表される。
2008年には国連仲介によるソマリア暫定政府とソマリア再解放同盟(旧イスラム法定連合)との会合が持たれ、ジブチ合意に署名が行われた。この合意に基づき、エチオピア軍は2009年初等までに撤退する事になった。
一連の内戦を収束すべく、隣国ジブチでは2009年1月31日に暫定政府がソマリア国会に於いて大統領選挙を実施。その結果、ソマリア再解放同盟の指導者で穏健派のシェイク・シャリフ・シェイク・アフマドが、ヌール・アッデ・ハッサン・フセイン前首相らを破って新大統領に選出された。アフメド大統領は反政府勢力が主張するイスラーム法(シャリーア)施行の要求を一部受け入れるなど、国内各勢力の和解に向けて動き出している。しかし反政府勢力の中でも若手中心で組織され、2008年にキスマヨを占拠した頃から活動を活発化しているアル・シャハブは2009年1月にはソマリア暫定評議会の拠点バイドアを占拠し、5月にはジョハールを占拠。6月には首都モガディシュが包囲される事態となった。これに対しアフマド大統領は外国軍の支援を求める声明を発表した。またこの動きに呼応してソマリア再解放同盟の強硬派でエルトリア寄りのヒズブル・イスラムも活動を活発化させた。しかし外国の介入を拒絶するアル・シャバフに対し、親エルトリアのヒズルブ・イスラムとは互いに反目し合い、南部の都市キスマヨでのラジオ局焼き討ちに端を発した双方の戦闘が始まる。9月には互いに宣戦布告を行い、キスマヨでの攻防戦が行われる。ヒズルブ・イスラムは各地で敗北し、モガディシュ北部のヒーラーン州へ撤退する事になる。さらに派閥が分離し、一部はアル・シャバブへ合流するなどし、徐々に勢力が衰えていく。2010年10月には議長のアウェイス師が、戦闘停止とアル・シャバブへの合流を発表した。
2010年12月には混迷の中、北ガルガドゥード地域が新興の自警団的勢力に掌握され、その西側にはイスラムスンニ派のスンニ共同体党、プントランドには新たにシェイク・アタム率いるイスラム主義勢力が生まれ、事態の一層の混迷化を招いている。また比較的大きな勢力のプントランドとソマリランドの両国の間にはマーヒル州、スール州、サナーグ州、カイン州の帰属に関する領土問題が発生している。
2011年にはジュバランドでラスカンボニ運動を名乗る組織が、アル・シャバブに対して武装蜂起し、暫定政府に参加。4月にはケニアがソマリアとの国境沿いの地域で「アザニア国」を建設。2011年11月にはこうした事に危機感を感じたエチオピアが中部ベレドウェインなどに再侵攻し、情勢は悪化の一途を辿っている。単一民族が作り出した希なアフリカ国家ソマリアは皮肉にも多民族国家以上に複雑な情勢を生み出している。