カンボジア内戦
戦争(紛争)名 カンボジア内戦
戦争期間 1967年〜1993年
戦争地域 カンボジア、ベトナム
戦争の結果 民主政権へ移行
死者数 100万〜300万人以上

国名 カンボジア王国
首都 プノンペン
人口 1480万人(2008年)
公用語 クメール語
宗教 上座部仏教90%
イスラム教 4%
民族 クメール人90%
ベトナム人5%
華人1%
少数民族(36民族)4%
主要産業 観光業、農業(米)、縫製業他
備考 旧フランス領

交戦勢力(1970-1975)
クメール共和国 ←敵対→ カンプチア民族統一戦線
アメリカ軍 クメール・ルージュ
南ベトナム軍 北ベトナム
ベトコン
中国

交戦勢力(1978-1991)
クメール・ルージュ ←敵対→ KNUFNS
中国 ベトナム共産軍

交戦勢力(1997-1998)
クメール・ルージュ ←敵対→ KNUFNS
中国 ベトナム共産軍

ポル・ポト
ポル・ポト(本名サルロット・サル)はカンボジア出身の共産主義者でクメール・ルージュを率い、ロン・ノル親米政権を打倒した。後の民主カンプチア首相。ポルポトはフランス領インドシナ(現在のカンボジア・コンポントム州)で農園主の子として生まれ、比較的裕福な環境で育った。1949年にフランスへ留学し、留学中に共産主義者となった。1953年にはカンボジアへ帰国。私立高校の教師として働き始めると一方で民主活動に没頭した。1953年にクメール・イサラク連合(Khmer Issarak Accosiation)に加わり、独立闘争を行う。1961年にはカンボジア共産党中央常任委員に就任。1963年にはプノンペンで極秘裏に開かれた第3回党大会に於いて書記長となった。1967年には中華人民共和国に支援され、政府に対抗する為の武装蜂起を行う。カンボジア共産党はクメール・ルージュと呼ばれ、その武装組織はポル・ポト派と呼ばれていくようになる。ポル・ポトは原始共産主義を掲げ、政権奪取後は、知識層、都市部に住む技術者、教師、工員、会計士などを処刑していく。また「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱え、同じく知識階級にある党幹部なども次々と粛正していく。アメリカとベトナム、中国の状勢に翻弄されつつも1979年まで政権を維持した。プノンペンを追われた後はジャングルに潜伏し、1997年まで闘争を続けるが、カンボジア政府と和平交渉を行った腹心のソン・センとその一族を粛正すると、クメール・ルージュの軍司令官タ・モクに裏切り者として逮捕され、終身禁固刑(自宅軟禁)を宣告される。1998年の4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連行。1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだとされるが、遺体の爪が変色していたとされ、服毒自殺または毒殺された可能性がある。100万を超える虐殺を行ったポル・ポトであるが、最後は古タイヤと共に火葬された。

キリング・フィールド(The Killing Fields)
カンボジアの一連の虐殺はピューリッツァ賞を受賞したニューヨークタイムズの記者シドニー・シャンバーグによって取材され、1984年にキリングフィールドとして映画化された。キリングフィールドとはポルポト政権時代のカンボジアに於ける大虐殺が行われた刑場の総称として使用された。最も有名なものは首都プノンペンにあった政治犯収容所S21(トゥール・スレン)に付属する刑場で、現在でもいくつかの刑場が慰霊、歴史保存の為に無数の遺骨と共に残されている。

マヤゲス(マヤグエース)号事件
マヤゲス号事件は1975年5月に起きたカンボジア(クメール・ルージュ政権)による商船拿捕事件である。共産主義を標榜するクメールルージュが政権を掌握すると、自国の領海を90海里(167km)とし魚雷艇や哨戒艇を使用し、付近外国船舶への威嚇攻撃を開始した。そんな中アメリカ民間船籍のマヤゲス号(SS Mayaguez、10766トン 乗員39人)は香港からタイのサッタピープへ航行していた。ポウロワイ島南約10qのカンボジア領海に差し掛かったところ、島影からカンボジアの高速警備艇2隻(王政時代にアメリカから支給)が出現。カンボジアの船艇は機関銃とロケット弾による威嚇射撃を行い、停戦を命じた。マヤゲス号は救難信号を出し、停戦。拿捕から2時間後にはアメリカ国防総省に事件の一報が入る。当時フォード政権下にあったキッシンジャー国務長官は、ベトナム撤退で損なわれたアメリカの威信回復のために強硬手段も辞さない解決を主張し、フォード大統領もこれを支持した。
一方で外交ルートでの解決も試みられ、当時北京在駐の米中連絡事務所のジョージH・W・ブッシュ全権特命公使が在中国カンボジア大使館と中国に対して釈放を求める文書を送ったが、不調に終わった。
 カンボジア政府はこの拿捕についてマヤゲス号はアメリカCIAのスパイ船であると主張した。
アメリカ軍は軍事作戦を実施する為、タイに臨時司令部を設置し、第七艦隊空母コーラル・シー及び第三海兵師団を移動させ、空母ハンコック機動部隊、空軍F111A戦闘爆撃機なども進出させた。加えてアメリカ陸軍特殊部隊も同作戦に参加した。5月13日にはP3C哨戒機がポウロワイ島沖で停止中の同船を発見した。同機はカンボジア軍警備艇の対空砲火を受けて損傷したが監視を続け、航行を再開した「マヤグエース」がコー・タン島沖に停泊したのを確認した。
人質救出作戦は別々にされた船と人質双方に対して行われ、コータン島には第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊、空軍ヘリコプター、マヤゲス号には第4海兵連隊第1大隊D中隊などが投入され、本土への支援爆撃も実施される事になった。5月15日午前4時にはマヤゲス号に海兵隊が乗り込んだが、船内は無人だった。午前6時15分、175名の海兵隊員を乗せた8機のヘリコプターがコータン島に侵入すると、塹壕に配置されたカンボジア兵と激しい銃撃戦となった。降下地点ではRPG 2発の直撃を受けてヘリコプターが撃墜され、8人が即死、もう1人も間もなく死亡、3人は岸へ泳いでいったがカンボジア兵に射殺された。この戦闘は双方多数の死者を出した。一方でアメリカ軍ヘリコプター部隊がコー・タン島へ到着する直前の5月15日午前6時7分、カンボジア側はプノンペン放送を通じてコンテナ船「マヤゲス」の国外退去処分を発表した。「マヤゲス」の船員らは、午前7時30分頃までには前日と同じタイ漁船に乗せられ、同じく解放されたタイ人漁船員らとともにコー・タン島へと向かっていた。フォード大統領は、カンボジアから乗員の安否についての言及が無いことから、作戦の続行を命じた。
解放された漁船の出航は、午前9時前にはP3C哨戒機によって発見され、ミサイル駆逐艦ヘンリー・B・ウィルソンが接触し、解放された漁船であることを確認すると船員を収容した。その後船員らはマヤゲス号へと戻り、自力航行でシンガポールへと寄港した。タイ人漁船員らもそのまま漁船でタイの母港へ帰った。アメリカ軍に対する作戦終了命令は、現地時間5月15日午前11時過ぎに発令された。本土爆撃はすぐに停止されたが、コー・タン島での地上戦闘は続いた。現地部隊は増援部隊の兵員からも船員解放が実現済みであることが伝わっていたが、カンボジア軍の攻撃が激しくて発砲を止めることは到底できない状況だった。午後2児にはヘリコプターでの撤収を開始し、その支援に駆逐艦の艦砲射撃とAC130攻撃機による地上攻撃が実施された。作戦の終了は午後8時55分に報告された。アメリカ軍は15名が戦死、50名が負傷し、3名が行方不明となった。3名は捕虜となりカンボジアのトゥールスレン収容所(キリングフィールド)にて尋問の後処刑されたと考えられている。また作戦初期には、空軍軍人23名がウタパオ基地に向かう途中の事故で死亡している。一方、カンボジア側の被害は、作戦領域に展開していたクメール・ルージュの兵士約300名のうち60名が戦死した。
この一連の作戦はアメリカ軍将兵に大きな犠牲を出し、人質救出作戦のあり方と、海洋での船舶拿捕やテロに対する専門対抗部隊、初期の情報収集と指揮を専門的に実施する部隊の必要性、大規模な軍事行動が必ずしも作戦の成功に繋がらない点を痛感させた。
カンボジアの歴史と植民地支配
 カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島に位置する国家で、東にベトナム、西にタイ、北にラオスと国境を接し、南部は南シナ海に面している。チベット高原を源流とする国際河川のメコン川が中国、ミャンマー、ラオス、タイを経由し、カンボジアに注がれ、その下方にはベトナムが存在する。紀元前1世紀頃にはこのメコン川一帯にフナン(扶南)という王国が存在した。6世紀の真臘(しんろう)王国がクメール人による最初の国家とされている。8世紀にはジャワ王国の支配を受けるが9世紀にはクメール王朝が独立を果たした。以降仏教を中心に発展していくが、1283年にはモンゴル帝国の侵攻を受け、その後はアユタヤ王朝にも侵攻を受ける。
16世紀になるとインドシナにポルトガルの商人や宣教師がやって来る。続いてスペイン人、オランダ人がこの地に現れ、17世紀にはフランス人がやって来た。
1831年にシャム国(現在のタイ)とベトナムの間でカンボジアの支配権を巡り、第一次泰越戦争が行われ、1841年には再度タイがカンボジアに侵攻し、ベトナムと戦う第二次泰越戦争が起こる。この戦争でカンボジアはタイ、ベトナムの両国で共有するという平和条約が締結される。
 19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島の植民地化が始まり、1887年にはフランス領インドシナに編入され、タイやベトナムと共に植民地としての歴史を歩んでいく。
第二次世界大戦が開始され、フランスがナチスドイツに占領されると、この地域に大日本帝国軍が進駐し始め、1940年8月30日には日本との間に政治軍事・経済協定が結ばれる。この後カンボジア、ラオスの領土を巡り、タイとフランスの間でタイ、フランス領インドシナ紛争が勃発する。フランス軍が優勢になると日本が和平を斡旋し、1941年5月8日には東京条約が調印される。11月にはノロドム・シアヌーク(シハヌーク)が18歳で王位を継承した。シアヌーク国王は日本軍の明号作戦に呼応する形でカンボジアの独立を宣言するが、第二次世界大戦で日本が降伏すると独立は消滅し、再びフランス領に収まる。
しかしその後もシアヌーク国王を中心とした独立運動は継続され、1949年にはフランス連合内での独立を果たし、1953年にはカンボジア王国として完全な独立国となった。

カンボジア王国、クメール共和国時代

 カンボジアは1953年宗主国のフランスから独立し、1960年にシアヌーク国王が国家元首に就任した。当時隣国ベトナムではアメリカ軍と北ベトナム共産勢力がベトナム戦争を行っており、カンボジア政府は反米姿勢をとり、アメリカとの断行政策を行った。当時のカンボジアはメコン流域の豊かな土壌を利用した農業で食料の国内自給率は高く、余剰分の米は隣国の北ベトナム政府とベトコンが購入していた。
 この事態に対して、インドシナでの反共政策を強化していたアメリカはカンボジアでの不安定化工作と親米政権の構築を計画し、1970年3月17日に親米派で元軍人であり、首相経験者のロン・ノルがシアヌークの外遊中にクーデターを起こし、シアヌーク一派を追放。クメール共和国の樹立を宣言した。ロン・ノルは政権奪取後から激しい反ベトナムキャンペーンを行い、カンボジアに住むベトナム人を弾圧、虐殺した。1970年4月には北ベトナムの構築した補給、情報網であるホーチミンルートを粉砕するため、1968年より行われてきたアメリカ軍によるカンボジア空爆を拡大し、人口密集地にも空爆を行った。空爆は苛烈なものとなり、その爆弾投下量は第二次世界大戦中にアメリカ軍が日本に落とした爆弾の3倍という規模になった。この爆撃により数十万の農民が死亡し、都市部に避難した農民が国内難民となり、その数は200万人に上った。
 農村部から都市へ難民が殺到した事により、カンボジアの食糧自給率は一気に低下し、飢餓が懸念される食料輸入国に陥った。
これに対し、北京へ脱出していたシアヌークはカンプチア民族統一戦線を結成し反ロン・ノル諸派に共闘を呼びかけていく。この動きに呼応したグループの中には毛沢東主義を学んだポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリの率いる共産主義勢力のクメール・ルージュもあった。1970年10月にはカンボジア内戦が開始され、戦闘はカンボジア政府軍、ベトナム共産軍、アメリカ軍、クメールルージュを巻き込んで複雑化していった。1971年1月には内戦が激化した為、アメリカ軍はロン・ノル支援の為に南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアに侵攻させ、ベトナム戦争はインドシナ戦争へと拡大した。

民主カンプチアとクメール・ルージュの支配
 1971年10月にはロン・ノルが軍事独裁体制を宣言し、翌年には新憲法を公布したものの、1973年3月29日にアメリカ軍がベトナムから完全撤退した為、アメリカ軍の支援も終わり、元来国民からの支持も低かった事もあり、政権は急速に弱体化していく。
 1975年4月1日にはクメール・ルージュが共和国側最後の拠点を攻略し、首都プノンペンへと迫った。ロン・ノルは国外に脱出しアメリカに亡命。4月12日には在カンボジアアメリカ大使館が閉鎖され、4月17日にはクメール・ルージュがプノンペン入城を果たし、共和国が全面降伏するに至った。
クメール・ルージュに支配されたプノンペンでは直ちに住民に対する農村強制移住が実施された。これには重病人や妊婦なども例外とされなかった事から移動中に大量の死者を出す事となった。
1976年にはカンボジア民主憲法を公布し国名を民主カンプチアに改称。クメール・ルージュはポル・ポトを頂点とした共産主義政党として活動を開始。原始共産制と言われる極端な共産主義体制を実施し、通貨は廃止。都市部の住民の食料は住民自身に耕作させるという方針で、資本家、技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。彼らは農民として農業に従事させられ、多くが「反乱を起こす可能性がある」という理由で処刑された。また革命の成功を知り、国の発展のためにと帰国した留学生や資本家も、殺害された。ここにクメール・ルージュの恐怖政治が開始される。子供は親から引き離され、集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。この一連の虐殺、強制労働による死者は100万人から300万人とされ、キリングフィールドと呼ばれた。

ベトナムの侵攻と内戦の再開と終結
インドシナではベトナム、カンボジアと相次いで共産主義国家が誕生したがベトナムはソ連、カンボジアは中国と関係が深かったことが原因で両国の関係は急速に悪化。1978年1月にはポル・ポトがベトナム領内の農村に攻撃を行い、ベトナムと断交した。
1978年にはポル・ポトへの反乱が疑われた東部軍管区のクメール・ルージュ幹部、兵士らが南西軍管区のポル・ポト派から攻撃を受け、内戦に陥った。その結果東部軍管区の将兵が大量処刑され、ベトナム領内には十数万人の東部地区軍民が難民として流れ込んだ。ベトナムは、カンボジアからの難民をカンプチア救国民族統一戦線(KNUFNS)として組織し、元軍人のヘン・サムリンを首相に擁立し、打倒ポル・ポト派を掲げた。
 1979年1月にはKNUFNSとベトナム軍(旧ベトコンと旧政府軍からなる南部の兵士が主力)がカンボジア首都プノンペンを制圧しクメール・ルージュ体制は崩壊。ポル・ポト派はタイ国境沿いのジャングルに追い込まれていく。首都を制圧したベトナム軍とKNUFNSは親ベトナムのヘン・サムリン政権を樹立するが、ベトナム軍は山林に隠れたポル・ポトを捉えられず、ポル・ポト派はタイ国境を避難場所としてベトナム軍を攻撃し続けた。
 1979年2月には中華人民共和国の中国人民解放軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃。中越戦争に発展する。中越戦争はベトナムの勝利に終わったが、カンボジアではヘン・サムリンのベトナム傀儡政府が実権を握り、長期にわたるベトナム軍の駐留にベトナム政府はカンボジア国内外から非難を受ける。

 ポル・ポトはジャングルに身を隠し、政権を再奪取するために、過去に抗争したロン・ノル派やシアヌーク派と連合を作りゲリラ戦を展開した。一方共産主義体制を崩したいアメリカもCIAを通じこの3派連合を支援。また中国もポルポト派に大量の武器などを供与した。
1982年2月には北京での会談により、三派連合の民主カンボジアが成立し、カンボジアは二分される。しかし駐留するベトナム軍の攻撃は続き、1985年1月には民主カンボジアの拠点であるマライ山をベトナム軍が攻略し、三派連合の軍事力はほぼ壊滅した。
 ベトナム国内では1986年7月にレ・ドゥアン書記長が死去すると、ソ連のペレストロイ政策に倣い、ドイモイ政策を開始。1988年6月にはカンボジアに駐留するベトナム軍の撤退を始め、1989年9月には完全撤退を完了した。1991年10月23日にはフランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」を開催し、国内四派による最終合意文章の調印に達し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
 これにより国連平和維持活動に基づいた国際連合カンボジア先遣隊(UNAMIC)が1991年11月にカンボジアに展開し、1993年には国連監視下の下選挙が実施された。
 ポル・ポト派は1985年以降もジャングルでの抵抗活動を続けるが、1991年和平が達成されると1994年にはポル・ポト派を非合法組織として認定し1996年には数千人の兵士が投降した。フン・セン政権はポル・ポト派兵士を国軍に入隊させ政権基盤を強化。これに対してフンシンペック党のラナリット第一首相は利害関係から対立。1997年にはフン・セン第二首相が武力クーデターを起し、再び内戦が勃発した。この後1998年にカンボジア初の選挙が実施され、国王に復権したシアヌークの仲介もあり両者は連立政権を結成。また同年クメール・ルージュを率いてきたポル・ポトが病死。4月には国連の議席を復活させASEAN(東南アジア諸国連合)に正式加盟した。カンボジアでの混乱はこれで一応の収束はしたもののポル・ポト時代の虐殺行為に対する犯罪者調査と裁判などが開始されそれに伴い関係者が再び内戦を引き起こすのではとの懸念も広がっている。