フィリピン反政府運動
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戦争(紛争)名 |
フィリピン反政府運動 |
戦争期間 |
16世紀〜現在 |
戦争地域 |
フィリピン ミンダナオ島周辺 |
戦争の結果 |
継続中 |
死者数 |
不明 |
国名 |
フィリピン共和国 |
首都 |
マニラ |
人口 |
9400万人(2008年) |
公用語 |
フィリピノ語(タガログ語)
英語
スペイン語 |
宗教 |
キリスト教(ローマカトリック)83%
プロテスタント 9%
イスラム教 5%
仏教 3% |
民族 |
タガログ族
ビサヤ族
モロ族
メスティーソ
その他少数民族多数
華人
日系人 |
主要産業 |
農業(バナナ、サトウキビ他)
鉱業(金、銅、ニッケル)
林業、観光業、海運 |
備考 |
旧スペイン領 |
交戦勢力(米西戦争1898/4/25-8/12) |
アメリカ合衆国 |
←敵対→ |
スペイン帝国 |
フィリピン第一共和国 |
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キューバ |
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交戦勢力(米比戦争1899-1902) |
フィリピン共和国
第一共和国 |
←敵対→ |
アメリカ合衆国 |
秘密結社カプティナン |
フィリピン隊 |
プラハネス |
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スールー王国 |
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モロ族 |
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交戦勢力(対テロ戦争 |
フィリピン共和国
第四共和国 |
←敵対→ |
アブサヤフ(ASG) |
アメリカ軍 |
MILF |
欧州連合
(財政支援) |
アルカイーダ |
オーストラリア
(後方支援) |
ジャマ・イスラミア |
イギリス
(後方支援) |
モロ民族解放戦線 |
日本
(財政支援) |
新人民軍 |
ホセ・リサ-ル
19世紀末に医師で著作家、画家。フィリピン独立運動の父と呼ばれる。リサールはスペインからの政治的独立のみを目指す革命家というよりは、フィリピン人たちの生活改善を願う現実的改革者であった。学生時代から多くの差別を受けたものの、スペインのマドリードで学び、日本にも滞在経験があった。初期にはプロパガンダ運動を行い、暴力には訴えないその姿勢がフィリピン人の共感を集めた。しかし事態を危険視したスペインは1892年にリサ-ルを逮捕し、ミンダナオ島へ追放した。リサ-ルはミンダナオ島で学校と病院を作り、住民の啓蒙に努めた。
1896年には秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始するとスペインの官憲に逮捕され、その後暴動の扇動をした容疑で逮捕され、銃殺刑が決定される。スペイン人官吏のキューバに行き医師として奉仕するなら刑を免れるとの提案を拒否し、故国の為に死を選び、1896年12月30日に銃殺刑となった。リサ-ルが処刑された地は現在リサ-ル公園として整備され、記念碑は衛兵による24時間の警備が行われている。
OEF-P(Operation Enduring Freedom - Phillippines)
アメリカの対テロ戦争不屈の自由作戦により、対象となった地域の一つがフィリピンのイスラム教武装組織アブ・サヤフとそれに類する武装組織であった。アメリカ軍は2001年1月に実働部隊を派遣。海兵隊MEU部隊600名と共に現地部隊の訓練とアドバイザーにアメリカ陸軍特殊部隊を送り込み、軍事演習と掃討作戦バリカタン演習02-1、02-2を実施。バシラン島での掃討作戦に参加した。一連の作戦でフィリピン軍は戦死368人、アメリカ軍は戦死15人、警察官は20人以上が戦死し、民間人にも多数の死者と避難民が出ている。一方イスラム勢力側でも822が殺害され、145人の逮捕者が出ている。
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スペイン支配と独立
フィリピン共和国は東南アジアに位置する7000を超える島からなる島国で、第二次世界大戦後にスペインから独立。東ティモール国ができるまでは、東南アジアで唯一のキリスト教国として存在していた。25000年〜30000年前にネグリド人が移住し、紀元前500年から紀元13世紀の間にマレー系民族が移住。現在の他民族状態になり、14世紀後半にはイスラム教が広がった。しかし多数の島と民族を持つフィリピンでは国家は形成されていなかった。
1521年にセブ島にポルトガル人のフェルディナンド・マゼランの率いるスペイン艦隊がヨーロッパ人としてはじめて到達する。世界一周航海の途中で到達したこの地でマゼランは、現地人達にキリスト教への改宗とスペイン王朝への服従を要求するが、マクタン島の首長ラプ・ラプはこれを拒否し、1521年4月27日にマクタン島の戦いが発生。この戦闘でマゼラン軍は敗北し、マゼラン本人も殺害される。
フィリピンはその後1529年のサラゴサ条約によりスペインの領土となった。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とすべく総督府を設置し、徐々にキリスト教への改宗と植民地支配を広げていった。1571年にはフィリピンの大部分が征服され、これ以降250年間に渡りメキシコのアカプルコと交易を行うがレオン貿易が続く。
しかし、ミンダナオ島南部、スールー諸島、南パラワン島ではスールー王国をはじめとしたイスラム勢力の激しい抵抗があり、最後までこの地のキリスト教化と占領はできなかった。
1762年にはヨーロッパに於ける7年戦争、インド・北米植民地戦争の影響でマニラが一時的にイギリスに占領されたものの、1763年にパリ条約が締結されると再びスペインの支配下に戻された。
多くのラテンアメリカ諸国と同様にプランテーションの開発を行い、スペイン人の大地主が地元民を使役し富を得る体制が確立した。これに対してフィリピンの各民族は幾度となく反乱を起こすが、いずれも小規模なもので、すべて鎮圧されている。
19世紀末に医師で著作家のホセ・リサールが独立運動を行う。リサ-ルはその後銃殺刑になるが、1896年革命以降、独立の機運が高まっていく。1898年にはアメリカとスペインの間で米西戦争が勃発。アメリカは独立運動を支援する名目でフィリピンを支援し、当時香港へ亡命していた秘密結社カプティナンの指導者エミリオ・アギナルドをアメリカ艦隊と共にフィリピンに帰国させ、マニラ湾開戦を経て、陸戦に突入。1898年8月13日には米軍と共にマニラのスペイン総督府を陥落させ、独立戦争に勝利した。1899年6月12日にはフィリピン第一共和国として独立を果たし、エミリオ・アギナルドが大統領に就任する。
しかし同年米西戦争の終結によるパリ条約(1898年)により、フィリピンの領有はグアム、プエルトリコと共にアメリカに割譲された。
米比戦争と第二次世界大戦
この割譲に対して、フィリピンは猛烈な抵抗を見せ、米比戦争が勃発する。この戦争で60万人のフィリピン人が殺害され、1901年にはアギナルド大統領がアメリカ軍によって逮捕され、フィリピン第一共和国は崩壊した。以降グアム、プエルトリコと共に過酷な植民地支配を受けていく。1913年には抵抗を続けていたモロ族の反乱も鎮圧される。独立の機会が再度訪れたのは1916年、フィリピン議会議員だったマニュエル・ケソンの尽力によりアメリカ議会でフィリピンの自治を認めるジョーンズ法が可決。1934年のタイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立が認められる事になった。
独立も間近になった1941年12月にアメリカ軍と日本軍の間で太平洋戦争が開戦されると、日本軍が東南アジア一帯を支配し、フィリピンにもその軍が迫った。アメリカ陸軍司令官ダグラス・マッカーサーは敗走を続け、オーストラリアに逃亡。1942年にフィリピンは日本軍によって完全占領された。
日本の軍政下でフィリピンは傀儡政権としての独立を行い、1943年にフィリピン共和国(第二共和国)となった。これに対しアメリカの支援を受けたフィリピンの各部族は反日ゲリラ組織ユサフェ・ゲリラを結成。共産系のフクバラハップなどと共に戦闘を継続したが、日本軍に決定的な打撃を与える事はできなかった。
また、第二次世界大戦の戦乱によりフィリピン人110万人が死亡した。
戦争が終結した1945年の日本敗戦によってフィリピンは再度アメリカの領土に復帰する事になったが、戦前からの決定事項であったフィリピンの完全独立が1946年に行われ、フィリピン共和国(第三共和国)が誕生した。
マルコス政権と冷戦
第二次世界大戦が終結し、冷戦が開始されると、イスラム組織は共産主義国家からの支援を受ける形で、その勢力を維持した。戦時下では反日ゲリラ戦を展開していたフクバラハップが勢力を拡大し、、ルソン島などでゲリラ戦を展開。しかし1950年代には完全に鎮圧される。
1965年、インドシナでの共産化が色濃くなってくる頃、フィリピンでは反共思想を唱えるフェルナンド・マルコスが大統領に就任し、独裁体制を敷いた。マルコスはアメリカの支援を受け、20年間に渡る独裁政治を継続するが、政治体制は腐敗し、他のアメリカが作った傀儡政権同様、人民からは不人気であった。
これに対して中国やソ連から支援を受けたモロ民族解放戦線(MNLF)や新人民軍(NPA)による武装蜂起が発生していく。
1986年には民衆の不満が高まり、エドゥサ革命が発生し、マルコス政権は崩壊。マルコスはハワイに亡命し、民主的なフィリピン共和国(第四共和国)が生まれた。
イスラム勢力と内戦
フィリピンの反政府運動はイスラム教徒とローマカトリックの対決の図式で、およそ3世紀に渡り紛争を繰り広げている。16世紀にフィリピンを植民地にしていたスペイン帝国はフィリピン本島の北部や中央に点在していた部族、モロ族を弾圧しミンダナオ島などの南部に強制移住させる。これ以降、3世紀に渡りスペイン軍とモロ族の抗争が始まる。スペインはフィリピン人をカトリックに改宗させイスラム教徒であるモロ族を攻撃。モロ族も報復を繰り返し次第に民族対立から宗教対立の色を濃くしていった。
フィリピン独立(第三共和国)後の1960年後半には農地改革政策を掲げるフィリピン政府が、ミンダナオ島に対して入植を開始。この行為がこれまで散発的であった両者の対立を決定的にし、モロ族はMNLF(モロ族民族解放戦線)を結成。ミンダナオ島を含む南部14州に自治権を確立するための武装闘争に乗り出していく。
1996年フィリピン(第四共和国)のラモス大統領は、14州に対する自治権付与に向けた南フィリピン平和開発協議会を設立。MNLFはその活動を停止し、話し合いの席に着く事になる。しかしこの会議と自治権獲得にもかかわらず、一連の事態に満足できないMNLFの一部が組織を離反。新たにモロ・イスラム解放戦線(MILF)とイスラム原理主義グループ「アブ・サヤフ」を結成しており、1997年の停戦合意にもかかわらず、双方の組織は戦闘を継続している。イスラム原理主義の過激派であるアブ・サヤフは、シリアやリビアで聖戦を学び、オサマ・ビンラディン率いるテロ組織アルカイーダとも密接な関係を気付いていた。リーダーはイスラム教伝道師のジンジラニ師で、カトリック教徒の集団処刑や爆弾テロなどを続けている。
対テロ戦争
この事態に変化が生じたのは2001年9月11日。全米同時多発テロによるアメリカ軍のアフガニスタンに対する軍事行動が切っ掛けであった。アメリカのジョージ・ブッシュ大統領は、テロとの戦争を宣言し、アルカイーダと密接な関わりを持つアブ・サヤフを壊滅する為にフィリピン政府に対して軍事支援を開始。ミンダナオ島を中心としたイスラム過激派潜伏地対にアメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーと海兵隊を派遣した。フィリピン政府はアメリカ軍のフィリピン撤退後、はじめて米軍を受け入れた。アメリカ軍の駐留に神経質な国民に配慮して、米軍の活動は軍事顧問としてのもののみにとどまっているが、ミンダナオ島に於ける一連のテロ組織壊滅作戦は開始。
2004年にはマレーシアなどが参加して国連停戦監視団が派遣されたものの、2008年8月から大規模な武力衝突が発生し、フィリピン軍兵士17人と親政府よりの民兵5人が戦死。イスラム勢力側でも141人が死亡した。8月25日の戦闘ではさらに64人のフィリピン軍兵士が負傷し、民間人60人が戦闘に巻き込まれ死亡した。
この結果、40万人以上の国内避難民が発生。2009年には再度和平交渉が行われ、停戦が維持されているが事態は流動的となっている。
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