北朝鮮問題
朝鮮半島を分断する2つの国家は第二次世界大戦で日本が敗戦した後東西の大国の思惑の中で誕生した。1943年カイロ会議で朝鮮半島の問題が取り上げられ1945年の連合国ヤルタ会談ではアメリカ、イギリス、ソ連の間で朝鮮を一つの国家として独立させる話し合いが進む。1945年に日本軍が降伏するとソ連軍はいち早く南進を進め朝鮮半島北部にまでその勢力が及んだ。アメリカ軍は完全に出遅れる形となりこの進行に歯止めを掛けるべく38度線での分割進駐をソ連側に提案。双方が合意し朝鮮半島は分断された。やがて南北朝鮮は独自国家を建国した。

朝鮮戦争
38度線は実質的な国境線となり1948年には大韓民国(南)と朝鮮民主主義人民共和国が誕生する。1950年には突如北朝鮮軍が南に侵攻を開始。朝鮮戦争が勃発。3年間の戦闘は中国軍、アメリカ軍を巻き込んだ第二次世界大戦後最大の戦争となった。
朝鮮戦争開戦当初アメリカ軍は第二次世界大戦同様の装備と戦術で対抗。ソ連の後押しで近代化した朝鮮軍に苦戦を強いられる。これら装備の更新の遅れは戦後の疲弊した国内予算や戦勝による満身で戦術装備研究が遅れたことも原因となっていた。また多くのベテラン兵士が第二次大戦後に帰還しており補充兵が多かった点も挙げられる。また韓国が自力で所持する武力は治安維持に必要な最低限のものであり北朝鮮の攻勢に耐えうるものではなかった。アメリカ本国では北朝鮮の戦力は小規模なゲリラ部隊と考えられこれも大きな初戦敗退の理由となった。1950年6月25日38度線によって始まった朝鮮戦争は僅か4日で韓国の首都ソウルが陥落する事態になった。これに対してアメリカは陸海空全部隊を派遣。既に韓国軍は総崩れで国連軍は善戦するも被害を大きくした。8月には全軍をナクトンカンへ撤退させた。その後釜山を死守したアメリカ軍は仁川上陸作戦を敢行。多くの困難を抱えながらも上陸作戦に成功し米、国連軍の反撃が開始された。朝鮮半島の海岸沿いを両端から北上し9月27日にはソウルを奪回、その後国連軍は38度線で停止。1950年10月1日には北朝鮮の金日成主席に対して降伏勧告を行った。北朝鮮はこれを黙殺しこれを受けた国連軍は10月9日に38度線を突破し平壌への進撃を開始した。10月19日にはアメリカ軍、イギリス軍、韓国軍などが平壌入城を果たした。国連軍の勝利で終わるかに見えた朝鮮戦争の事態が急変するのは10月25日。韓国第一師団が正体不明の敵と遭遇。混乱の中部隊は撤退をするがこの戦闘で捕虜になったのは中国軍の兵士であった。この時点で中国軍の兵力は12万人が展開しており南下を開始する準備を始めていたが国連軍はその規模を過小評価。国連軍はこの後の戦闘で一気に前線を押し戻された。国連軍は多大な被害を出し後退戦を行ったが1950年11月6日壊滅寸前の国連軍を前に突如として中国軍は姿を消した。11月24日にはマッカーサー司令の下反撃作戦が開始されたが潜伏する共産軍の戦力を過小評価した結果平壌は甚大な被害を受け11月30日には全軍が朝鮮半島の最も狭い部分まで撤退した。この共産軍の待ち伏せ攻撃により国連軍は80%の損失を受け予備兵力も消失。12月には遂に38度線以南への後退が決定された。この後も国連軍は戦力を増強し北への再侵攻を計るものの戦線は膠着し被害が増大した。1951年には失地回復を目指すキラー作戦が実施されるが中国軍は既に撤退しており作戦は空回りに終わった。3月にはソウル奪還を目的としたリッパー作戦が実施され3月31日には38度線を回復。しかしこの一進一退の戦争に交渉による解決を模索しだした国連とアメリカは和平への道を模索するがマッカーサー元帥が戦闘継続の声明を独断で発表したため和平への道を失っていく。これに対して1956年4月11日にマッカーサー元帥は解任された。こうした中、中国軍と朝鮮軍は4月の大攻勢をかけるが補給の継続に失敗し撤退。5月にも同様の攻勢を行い一時はアメリカ軍を包囲するに至るがアメリカ軍は包囲網を突破。中朝軍は僅か2回の作戦で20万人の犠牲を出す事になった。この頃から戦闘は降着し互いに築いた陣地での攻防となり停戦の気運が高まっていく。両者の仲介にはソ連が動き1951年7月10日に和平会談がスタートするが互いに敗北を認めていなかったため双方の主張は平行線を辿った。この後板門店の会談で38度線を境に軍事境界線を定めたが停戦は長く守られることはなく38度線沿いでの戦闘が続いた。朝鮮戦争に停戦が訪れるのは1953年の事で板門店で休戦協定を締結した。この停戦は中国、アメリカ、国連の間で交わされた停戦協定であり当事者同士の北朝鮮、韓国は参加しておらず両国は現在でも戦争状態という認識を持っている。
またこの憮然たる停戦調印式により南北の相互不信は高まり以来互いの国家は同じ民族ながら憎しみ合う結果となった。朝鮮戦争による犠牲者は双方合わせて200万人を超えるとされている。また国境線は開戦当初と殆ど変わらない位置で固定され戦争の皮肉さを垣間見せている。

朝鮮問題
北朝鮮は金日成によって建国され共産主義路線を貫くが冷戦の終結により国家は衰退。しかし独裁政権を貫き1994年金日成死後は息子の金正日が後継者となった。国民が飢餓と貧困に苦しむ中国体の維持と主体思想を掲げ大量破壊兵器の生産問題などで西側諸国を翻弄している。
ソ連の崩壊、中国の開放政策で国際社会で孤立感を深める北朝鮮は存続をかけた政治戦争を西側社会に挑む形で核兵器や弾道ミサイルなどを盾に1994年に核疑惑を演出。これ以降も日本海に向けてのミサイル発射実験などで国際社会から譲歩を導き出す戦術をとっている。
北朝鮮の開発したテポドンは三段式弾道ミサイルで射程2200キロ。またさらに高性能のテポドン2(射程4000キロ)の開発を進めている。これらは核弾頭の搭載も可能とされており周辺諸国やアメリカが開発、販売中止を求めているが食料援助などの譲歩を引き出し政治的勝利を確立したい北朝鮮は無条件での開発中止を拒否し続けている。
一方隣国の韓国では金大中大統領による太陽政策によって対話推進路線を強調。2000年には金大中大統領が北朝鮮を訪れ金正日総書記と歴史的会談を行うなど交流が急速に進んだ。
こうした中、2001年アメリカのブッシュ大統領は演説で北朝鮮を悪の枢軸と位置付けるなど対決姿勢を強め核査察の無条件受け入れなど圧力をかけている。北朝鮮はこれに対して経済的見返りと不可侵条約の締結を交渉のカードとして切り出しているがアメリカは強硬姿勢を貫いている。
また1970年頃から発生したとされる日本国内における北朝鮮工作員の日本人拉致などの問題も抱えており3ヵ国の対北朝鮮政策は足並みが揃わない。
2002年には中国、ソ連が本格的に仲介に入っているが事態は複雑化している。