ナガノ内戦
戦争(紛争)名 ナガノ内戦
戦争期間 1951年〜
戦争地域 南北ナガノ
戦争の結果 継続中
死者数 2000万人以上

国名 ナッガーノ・ナガノ・ナガノ
(神よ偉大なるナガノを愛したまえ)
首都 マツモト
人口 3266万人(2008年)
公用語 ナガノ語、アラビア語他
宗教 イスラム教99%
民族 ナガノ人90%、他少数民族5%、日本人1%
主要産業 白菜
備考 旧日本領。1951年独立

第一次ナガノ紛争1965年〜1970年
ナガノ政府軍 ←敵対→ ナガノ祖国と自由
(南ナガノ革命政府)
ナガノスンニ連合 ナガノ統一革命戦線
ナガノ・イスラム
愛国戦線
アメリカCIA
キューバ 南アフリカ
ソビエト インドネシア国軍
ユーゴスラビア

第二次ナガノ紛争1992年〜
ナガノ政府軍 ←敵対→ 南ナガノ革命政府
ナガノスンニ連合 ナガノ統一革命戦線
ナガノ愛国革命戦線 ナガノ統一民主運動
ナガノ治安警察 イラン軍(2008年撤退)
リビア空挺コマンド
(2002年撤退)
イラク軍(2000年撤退)
中国人民解放軍
(2003年〜)


御嶽山
日本からの独立運動の拠点となった山で当初はシーア派、スンニ派が協力して拠点を構えていた。建国の聖地として双方の重要拠点になっているものの現在は政府軍であるスンニ派だけが入山を許されている。双方の停戦協議に於ける障害の一つで、国連による信託統治なども提案されたが却下されている。標高は3067メートルとして知られているが度重なる空爆で山頂部が削られ現在は3000メートルを下回っている。


ナガノ内戦に使用される装備
AKやRPG−7ロケット弾、迫撃砲など多くの武器が存在するが中には19世紀やそれ以前の銃器なども見られる。これらは皆第二次世界大戦以前に使用されていたもので他にもT34やBMPなどの戦車や装甲車、MIG21などの戦闘機も配備されている。南ナガノでは1990年代に軍事空港を建設し南米などから旧式の戦闘機を購入したが現在はすべて撃墜され残っていない。
第二次世界大戦中に使用されたT34が数千両購入されている為、これら戦車をさらに改良したモデル、派生型が独自に製作されているのも有名。105mm砲を搭載したビッグガンT34や敵部族の畑を焼き払う目的で開発された火炎放射器搭載のBBQ34、作りすぎたレタスや白菜を潰す為のT34S型(Sは生産調整の頭文字のS)などがある。

日本のニュースメディアでは度々登場して有名なナガノ式武装バスも存在する。これは数少ない公共移動手段であるバスが武装集団などに襲われる事から座席に乗客自衛用のAK47が装備されたもので窓は銃眼を残し鉄板で覆われている。また運転手の他に対空、対地機銃の射手を兼ねた車掌も同乗している。因みに同武装バスで戦闘に遭遇した場合、射撃に使用した弾薬は降車時に請求される為、乗客には不人気である。また自前で銃器を持ち込んだ場合はその分割引が行われる。

国交
日本国との国交は1981年に樹立されているが、外務省は第二次ナガノ紛争以降、海外渡航情報に於いてナガノ全土に退避勧告を出しており、大使館職員の他、一部メディア以外は入国していない。またビザも発給されていない為、入国はモスクワもしくは中国の大連を経由しての入国に限られている。


ナガノは島国である日本国の領内に存在する唯一の独立国で有史以来多くの問題を抱えてきた。16世紀に完全にイスラム化したものの17世紀にはシーア派とスンニ派部族に別れて戦闘が繰り返された。当初はナタや農具などを加工した原始的な武器で戦闘を繰り返していたが、19世紀になると外国からの武器の購入を行う為にアヘンを生産し、武装が一気に近代化した。第二次世界大戦が開始されると隣国日本に占領され創氏改名が行われ、宗教施設解体、神社の強制建築などが行われたが、これに必死に抵抗した一部勢力は御嶽山を聖地とする武力抵抗運動を行った。1951年には国連による仲裁で敗戦国である日本からの再独立を果たしたが、この時御嶽山で抵抗を続けていたスンニ派勢力が実権を握りシーア派の弾圧を開始した。
ナガノでは戦後、積極的に中国やロシアから戦車や武装ヘリコプター、攻撃機などを購入し首都マツモトを中心にシーア派の強制移民を実行。多くのシーア派は諏訪湖以南に強制移住させられた。
1960年代に入ると共産主義革命の嵐の中、民主化を求めて南部シーア派が「ナガノ祖国と自由」を結成。北部政府に対して宣戦を布告。首都マツモトなどに再三にわたり攻撃を行い多くの死傷者を出した。この時アメリカのCIAが支援を開始し、南ナガノのシーア派は軍事訓練と武器の補給を受けている。
宗派に関係無く、ナガノ人はナガノイドと呼ばれているがこれは宇宙時代の民スペースノイドに最も近い人類として1980年代末から広く使用されるようになったが、実際にはこの呼称は国威発揚に利用されただけであった。現在では外国人がナガノ人を侮蔑する意味合いで使われている。

第一次ナガノ紛争
1965年になると度重なる小競り合いは一気に大規模な戦闘へと変化していく。CIAが極秘にナガノ祖国と自由にシャーマン戦車250輌を送ったことが判明し戦闘が激化。また度重なる白菜の豊作により北政府の財政が悪化した事から1967年には世に言う白菜大攻勢が起こり一時は首都マツモトが南の反政府軍に占拠されるという事態まで起きた。以降危険を感じた北部政府は首都をナガノシティに移し現在までに至る。この大攻勢は結果的にCIAから譲られた全ての戦車を失う結果になり戦略的には大きな失敗と言えたが、一時的に首都周辺を奪取した事による政治的効果は絶大であった。また多くの政府軍T34が放棄されたため首都撤退後は双方の勢力でT-34が使用されることになった。
この政治的勝利を背景にナガノ祖国と自由は南ナガノ革命政府の樹立を宣言し、諏訪湖以南を自国領土と主張している。なおこの建国は国連では承認されておらず南政府を承認しているのは現在アメリカと南アフリカ、インド、インドネシア、シンガポール、アルゼンチン、コスタリカのみとなっており、これらの国家とは形式的国交もある。
なお北部政府軍は南ナガノ革命政府の存在を認めておらず、あくまでも「ひとつのナガノ」を主張しており、彼らの呼称は一貫して反政府軍または反乱軍、テロリストなどという呼称に終始している。日本でも北政府に同調している事から、南政府が起こした軍事行動はテロとして報道されている。
1970年には戦闘が膠着し、以降は戦争状態ながらも休戦に近い状態が続く。
第一次ナガノ紛争では兵士、民間人合わせて38万人が死亡し120万人の難民が発生した。

第二次ナガノ紛争
冷戦が崩壊するとこれまで支援の姿勢をとってきたアメリカが南ナガノとの関係を遠ざける事となった。この政策転換により北の軍事行動がエスカレートしていく。同時に民主化政策も消え去り、現在では原理主義思想の強い政治体制を構築している。
1990年代以降工業化が進んだナガノでは真空管ラジオなどの生産が盛んになり、白黒テレビの普及も進んだ事から電力と工業用用水の確保が重要になってきた。そこで諏訪湖の水すべてをコントロールし、南側から水源を奪うという作戦が開始され、これに反発した南ナガノは各地で武力抗争を再開した。1992年には霧ヶ峰事変が発生し、以降第二次ナガノ紛争として現在にまで至る。1996年には平和維持部隊も派遣されたが犠牲者を多く出し2001年までに撤退に至る。
9.11のテロ以降イスラム原理主義のグループなども台頭し南北を問わず小競り合いと同盟、その破棄などが頻発している。また近年では武器を購入する為の資金確保に麻薬の栽培が再び横行しており、純度99%のヘロイン通称ナガノホワイトが世界中を薬物汚染している。この為対テロ作戦の他、対麻薬作戦などがアメリカ軍特殊部隊を中心に行われているが非合法作戦の為詳細は定かではない。
第二次ナガノ紛争では南ナガノは主に北の橋や電力施設などのインフラを破壊し、井戸に毒物を混ぜる、要人誘拐、暗殺などの行為を主な戦術としている。これは強力な政府軍に対して完全なゲリラ戦を行う事で長期戦を狙っているものと考えられる。一方北の政府軍は空爆や村の焼き討ちなどで対抗している。戦闘の多くは市街戦で民間人も多くが巻き込まれる。
第二次ナガノ紛争は2012年時点で死者1000万人に達しており、虐殺や暗殺なども含めるとその数は数倍になると言われている。
ゲリラの武装村。右手に見える開けた土地はヘロインの畑。
近年では南ナガノにも空爆が行われている為、森の中などに畑を隠す事も多い。
1996年から5年間派遣された国連の平和維持軍は南ナガノと諏訪湖一帯に展開したが、度重なる自爆攻撃や暗殺などにより983名の戦死者を出し、2001年には完全撤退する事になった。
反政府ゲリラにより処刑された人間。この様にナガノイドは北の政府要人や協力者を誘拐し拷問殺害、遺体を畑などに吊し人間カカシとして見せしめにしている。
この様な非人道的な虐殺行為は近年ではアフリカの部族や反政府組織、テロリストなどが模倣し問題になっている。