北アイルランド問題

イギリス植民地として長い間統治されてきたアイルランド島北部の北アイルランドは1921年のイギリス・アイルランド条約により南部26州が自治領(1937年独立)となるが、イギリス領に留まった北部アルスター地方の6つの州では人口の4割を占めるカトリック住民が独立と南北アイルランドの統一を目指してイギリス領として残留を希望する残り6割のプロテスタント住民と対立。北アイルランド政府はプロテスタント住民の独占で運営され貧しいカトリック系住民に対しては厳しい課税義務や選挙制限などの差別が続いた。1960年代になるとカトリック教徒による公民権運動が頻発しそれをイギリス警察が弾圧し、それに対抗するためにカトリック系武装組織IRA(アイルランド共和軍)がテロ活動で反撃を開始。北アイルランド首都のベルファストでは泥沼のテロ攻撃が始まる。IRAに対抗し組織されたプロテスタント武装集団アルスター義勇軍、アルスター自由戦士団などもカトリック系住民に対するテロを開始し報復合戦は激化。一般市民に3000人以上の死者を出すことになる。


■対立の背景
この対立の背景にはアイルランドを植民地化したプロテスタント系イギリス人による宗教差別の他に民族的な差別も大きく含まれている。紀元前5世紀頃にブリテン島からアイルランド島に渡ったケルト人は5世紀頃にカトリック化をしケルト文化と融合していく。しかしヘンリー8世の時代になり自身の離婚問題からイギリス国教会への改宗を決行。さらには民衆にも改宗を迫り1600年代にはジェームス一世はプロテスタント系住民の入植を決行。これ以降2つの宗派、2つの民族による対立が激化し現在までに至る。1649年にはイギリスがアイルランドに侵攻し全島を植民地化。カトリック教徒は土地を没収され選挙権なども奪われることになる。1840年には主食であるジャガイモの不作が続きジャガイモ飢饉と呼ばれる飢餓が発生しアイルランド島の人口はその年の半数までに激減。この弾圧の中でアイルランド人のイギリス王室、プロテスタントに対する憎悪は頂点に達し抗争に発展する。

近代に入り1998年の4月10日イギリス北アイルランド紛争は歴史的な和平合意に達する。イギリス政府は北アイルランド政府の設立を承認。南北アイルランドの連絡機関南北評議会を置きイギリス、アイルランド、ウェールズ、スコットランドで構成される協議会の設立も行った。プロテスタント住民とカトリック住民との間でも議会の設置に概ね賛同し1998年5月には選挙後に発足した自治議会でアルスター統一党のトリンプル党首が自治首相に選出され一応の落ち着きを見せた。しかし武装過激派のIRAの政治組織シン・フェイン党からの入閣問題で折り合いがつかず和平プロセスは停滞気味になっている。

■カトリック教
アイルランドにおけるカトリック宗派の布教は5世紀頃に聖パトリックによって行われたとされる。彼の命日である3月17日はセントパトリックデイとされ緑の服を着てビールを飲むアイルランド島最大の祭りの日となっている。

■新武装組織リアルIRA
1996年に行われた和平交渉を不服としたIRA極右メンバーが1997年9月にIRAを離反。リアルIRAを名乗り武装闘争の継続を発表。98年8月には北アイルランドのオマーで爆弾テロを行い240人の死傷者を出した。

■IRAとSASの戦い

IRAの武装闘争に対しイギリス政府がベルファストに多数の軍隊を駐留させたがその中でも精鋭を誇るイギリスの特殊空挺部隊SASとIRAとの戦闘は苛烈を極めた。SASは対テロリスト戦闘を極めた特殊部隊であり武装、戦術共に世界最強の部隊であった。彼らはIRAのアジトを監視し夜間に奇襲を行いほとんどの場合逮捕するか射殺し現場を去っていった。この部隊に対しIRAはIRA隊員個人に対する暗殺活動などを計画、実行するなど血生臭い戦いとなった。SASはこの一連の戦闘に於いて都市戦闘とテロに対する技術を多く学び新たな兵器、戦術の開発に成功。これらのノウハウが後のテロ事件や各国の対テロ特殊部隊に多くの影響を与ていく。