チェチェン紛争
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ロシア共和国、チェチェン周辺地図。水色のエリアはイスラム教国家 |
チェチェンはソビエト連邦を構成する一共和国でカフカス山脈北部に位置する要衝である。チェチェン、ロシア間の問題は18世紀帝政ロシア時代に北部カフカス地方を植民地化した事が対立の期限とされている。当時のロシアでは諸外国との戦争を行う上でチェチェンなどの山岳民族を支配下におくことが重要と考えていた。これに対して山岳民族のイスラム指導者シャミーリはロシアに対して聖戦を挑み50年に渡り戦争を継続したが1864年にはロシアに併合されてしまう。この後も山岳民族達は独立抗争を続け1917年のロシア革命直後には独立戦争を展開。イスラム指導者ハッジのイスラム国家建国の理念に基づき、ロシア人入植地を攻撃した。しかしこれらはロシア赤軍に鎮圧され独立の機会は再び消え失せることになる。
第二次世界大戦が始まると打倒ロシアの精神を持つチェチェン人はドイツ軍の協力しロシア軍を攻撃。戦後スターリンはこれらの罪でチェチェン人のカザフスタンへの強制移住政策を実施する。チェチェン人のチェチェン期間は1957年に行われ再び独立への運動を展開していくことになる。
1991年には元ソ連空軍の将軍であるドゥダエフ大統領がチェチェン大統領に選出されロシアからの独立を宣言。これに対してエリツィン大統領は内務省治安維持部隊を派遣。首都グロズヌイを制圧すべく攻撃を開始したがチェチェン軍の猛反撃に合い撤退を余儀なくされた。
1994年、ロシア最大の外貨獲得資源である石油パイプラインの経路の一端を持つチェチェンの独立に更なる危機感を持ったロシア政府は更なる武力行使を開始。同年11月には連邦情報局(旧KGB)の工作員を使い政権転覆作戦を実施するが失敗。続く12月には空挺部隊、戦車部隊、空軍などからなるロシア軍を大量投入しチェチェン戦争に発展した。ロシア軍は首都の奪取に手間取り空爆で多数のチェチェン民間人が死傷。グロズヌイの死者だけでも7万人に達した。
これに対してチェチェンではアルカイーダのメンバーとされるオマル
ハッダード司令官を中心に反撃。イスラム聖戦の為に外国から参戦したイスラム教徒達と果敢に戦った。特にアフガニスタンで訓練を施された武装組織アルカイーダの戦闘員は戦場での攻撃だけでなくロシア国内でのテロ攻撃も積極的に行い数百人の死者を出している。
1996年膠着した戦闘を打破すべく両国で協定の調印が行われ独立問題についての話し合いを2001年まで凍結する宣言を行った。しかし99年の8月にチェチェンのイスラム武装勢力がダゲスタン共和国に侵入を開始したことに呼応しロシア軍も軍事行動を開始。チェチェン全土に空爆を行い20万人の難民を出した。
2000年夏の選挙ではロシア大統領に就任したプーチン大統領がチェチェン及びテロ組織との徹底抗戦の構えを見せ独立問題は混迷を極めていく。
これに対してチェチェン武装勢力はロシア各地で自爆テロや暗殺を繰り返していく。2002年にはモスクワ南東部のオペラ劇場に立てこもり観客、関係者700人を人質とした。ロシア政府の強攻策により人質に被害を出しながらも犯人を射殺し解決したが、これ以降もテロが頻発している。 |
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民族・宗教問題を超えた資源闘争
プーチン政権をの掲げる「強いロシアの復活」に重要なのがカスピ海に眠る世界第1位の埋蔵量を誇る石油、ガスなどの天然資源である。これらは長大なパイプラインによって黒海や地中海に運ばれ船舶で各国に運ばれるがパイプラインの通るチェチェンは独立を主張しパイプラインそのものを占有しようとしたのである。ロシアは独立派を一掃するために多くの工作や武力行使を行っているがイスラム教徒の頑強な抵抗とテロに悩まされ戦闘の終結も見えていない。
ロシアの持つ油田地帯はカスピ海西側のバクーと東側カザフスタンのテンギス油田でありバクーからノヴォロシースクに向かうパイプラインがチェチェンの首都グロズヌイ付近を経由している。
2001年9月11日に発生した同時多発テロによりアメリカ軍がアフガニスタン介入を果たした事でテンギスからアフガニスタン、パキスタンを経由しアラビア海に出るライン案も浮上している。 |
モスクワ劇場占拠事件
2002年10月に発生した劇場占拠事件。
10/23 |
モスクワ南東部の劇場にチェチェン武装勢力を名乗る爆薬と自動小銃で武装した50人の団体が乱入。ミュージカル上映中に客と関係者800人を人質にし立てこもる。グループの要求はチェチェンからのロシア軍の即時撤退であった。リーダーはチェチェン人のバラエフ野戦司令官。 |
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劇場内部に爆薬を仕掛け軍隊が突入すれば人質ごと自爆すると脅迫 |
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グルジア人、チェチェン人、子供を開放。 |
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午後になり観客などの一部が自力で脱出。 |
10/24 |
ロシア当局との交渉により人質150人を開放。依然内部には外国人を含む500人以上が人質に |
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午前6時 劇場内から銃声が聞こえる |
10/25 |
安保理がモスクワの武装集団を非難する声明を発表 |
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外国人を開放 |
10/26 |
午前2時 劇場内で2名の人質が射殺される。 |
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午前5時 劇場内で爆発音と発砲音が多発。 |
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午前6時 人質の殺害を開始。 |
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午前6時過ぎ 劇場内部から射殺を逃れた人質が脱出。同時に連邦保安部隊(FSB)の特殊部隊「アルファ」による強行突入を実施。その際に使用した催眠ガスによって人質100名以上が死亡。武装グループは全員射殺された。
作戦は約1時間で終了。 |
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犯人グループの内36名が射殺。2名が拘束。(内1名は後に死亡) |
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最終的な人質の死者は118名、うち116名は特殊部隊が突入時に使用した際に使用されたガスの影響でのものだった。 |
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チェチェン紛争歴史年表
1991年 |
11月 チェチェン大統領ドダーエフ独立宣言 |
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エリツィン大統領が内務省治安部隊を派遣するも失敗 |
1991年 |
12月 ソビエト連邦崩壊 |
1994年 |
12月 ロシア軍チェチェンに侵攻(第一次チェチェン紛争) |
1995年 |
6月 チェチェン武装勢力がロシア南部の村を襲撃し病院を占拠。チェルノムイルジン首相が交渉に当たり武装勢力は撤退。 |
1996年 |
1月 チェチェン武装勢力がタゲスタンの病院を占拠。 |
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事件をきっかけにロシア軍の武装勢力掃討作戦開始 |
1996年 |
ドダーエフ大統領死亡 |
1996年 |
5月 エリツィン・ヤンダルビエフ首脳会談により停戦合意 |
8月 |
レベジロシア安全保障会議事務局長、チェチェンマスハドフ参謀長との会談で停戦 |
1997年 |
1月 マスマドフ参謀長チェチェン大統領に就任 |
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5月 エリツィン大統領、マスマドフ大統領、和平調印 ロシア軍撤退 |
1999年 |
チェチェンイスラム武装勢力、タゲスタン共和国に侵攻。
ロシアでのテロ頻発
ロシア軍がチェチェンへ攻撃開始(第二次チェチェン紛争開始) |
2002年 |
ロシア劇場占拠事件 |
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