ユーゴスラビア紛争問題
緑線は旧ユーゴスラビア連邦の国境線。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島の大国旧ユーゴスラビア連邦は7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教からなる複雑な多民族国家でその複雑さからモザイク国家などと言われる。主な民族の他にも18以上の少数民族が存在している。ユーゴスラビアとは南スラブ人の国家を意味し建国当時の1918年にはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国という名称で呼ばれた。
ユーゴスラビアの位置するバルカン半島は昔か大帝国の支配を受ける場所であり時代ごとに様々な国家がこの地を支配した。19世紀に入っても北部をオーストリア、南部をオスマントルコ帝国に支配されていたユーゴスラビアは第一次大戦後にその支配国家である両国が敗れたため、初めての南スラブ人による統一国家を建国、1929年には国王のアレクサンドルによりユーゴスラビア王国と改称される。しかし第二次世界大戦が始まるとドイツ、イタリアの枢軸国に占領されドイツの擁護を受けたクロアチア地方はクロアチア独立国となった。政権の中心はナチスのファシスト集団が固めクロアチアからのセルビア人の排除、虐殺が始まった。ウスタシャと呼ばれる民族主義集団が殺害を繰り返し、このセルビア人狩りによる犠牲者は30万人を超え、セルビア人の憎悪は増していく。対してセルビア人は民族主義者チェトニクによる民族浄化を決行、20万人以上のクロアチア人を殺害する。結果第二次世界大戦では同一国家であった二つの民族が殺戮を繰り返すことになり、両民族の間に深い亀裂が生じることになった。第二次大戦後ユーゴスラビアは再び独立国家となり抵抗組織のパルチザンを指揮していたチトーが政権を握る事になる。チトーは民族、宗教の壁を超え社会主義の前に国家を統合し非同盟外交を推進した。ユーゴスラビアはこの後東西冷戦までの間民族、宗教の根強い対立は残るもののチトー大統領の強力な指導の元、東ヨーロッパ最大の連合国家として君臨する。各共和国を束ねるユーゴスラビア連邦において民族間の結束は必須であり、そのために多数民族であるセルビア人は各共和国に入植しその地盤を強化していった。この事が後に勃発する紛争において単一民族国家形成への大きな障害となっていく。また強力な連邦軍を持つセルビア人勢力はこれら少数のセルビア人入植者を保護するために各共和国に執拗な攻撃を加え独立の道を阻んでいく。これらの行為はミロシェビッチ大統領体制になってから苛烈を極め、多数の難民と死者を出すことになる。
旧ユーゴスラビアの民族分布図。植民政策などの結果各国境内に複雑に他民族が配置されており、今日の戦乱の原因となっている。民族の色分けは以下の通り。
分布色 民族 居住国家
スロベニア人 スロベニア共和国
クロアチア人 クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ
水色 セルビア人 セルビア・モンテネグロ共和国(新ユーゴ)、
クロアチア、コソボ自治州、ボイボディナ自治州
ムスリム人 ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ人 モンテネグロ共和国(セリビアモンテネグロ連邦内国家)
オレンジ アルバニア人 コソボ自治州、マケドニア共和国
黄色 マケドニア人 マケドニア共和国
灰色 その他の民族 セルビア・モンテネグロ(新ユーゴ)、マケドニア共和国

旧ユーゴスラビア連邦の構成
国家 ユーゴスラビア
(セルビア共和国)
含むコソボ自治州
クロアチア スロベニア マケドニア モンテネグロ ボスニア
独立 1992年4月 1991年6月 1991年6月 1991年 1992年3月
首都 ベオグラード ザグレブ リュブリャナ スコピエ 新ユーゴに併合 サラエボ
主民族 セルビア人
アルバニア人(コソボ)
クロアチア人 スロベニア人 マケドニア人
アルバニア人
モンテネグロ人 セルビア人
クロアチア人
主宗教 セルビア聖教 カトリック カトリック キリスト教
(マケドニア聖教)
セルビア聖教 イスラム教
セルビア聖教
カトリック
主言語 セルビア語 クロアチア語 スロベニア語 マケドニア語 セルビア語 ボスニア語
クロアチア語
セルビア語
スロベニア、クロアチアの独立(1991年)
1989年に訪れた東欧諸国の体制変換の嵐はユーゴスラビアでも吹き荒れることになる。1991年6月25日冷戦の終了とソ連の崩壊により、更なる民族対立と経済危機に苦しむユーゴスラビアからクロアチア、スロベニアが独立を宣言。これに対してユーゴスラビア連邦軍は事態を鎮圧すべく連邦軍をスロベニアに派遣し攻撃を開始するが、スロベニア共和国の強力な反撃に遭い自滅する。この一連の戦闘は10日間戦争と呼ばれた。戦争の早期終了の背景にはスロベニアが90%のスロベニア人によって構成されるほぼ純粋に近い単一国家であった事が大きく、特に民族対立意識が無かった点が挙げられる。

一方クロアチアではユーゴスラビア連邦軍がクロアチア国内に入植しているセルビア人の保護を目的に軍事介入を決行。クロアチア国内のセルビア人自治区ではユーゴスラビアに編入する住民投票が可決され、それを援助する名目で同じセルビア人ユーゴスラビア連邦軍が多数介入し紛争が激化していった。ユーゴスラビアの領土拡大政策とも思えるこの行動に対しクロアチアは領土を守るべくセルビア人支配地域を次々と制圧、その結果クロアチア国内に居住するセルビア人20万人が難民としてユーゴスラビアやヨーロッパ各地に散っていった。(クロアチア内戦1991〜1995)1995年にはクロアチアは目的を達し国際社会に復帰することになった。ユーゴスラビアにとってクロアチアとスロベニアは連邦で1位(スロベニア)と2位(クロアチア)の工業国でありそれを失うことは領土以上に手痛い打撃となった。一方セルビア人との協定でセルビア人難民の帰還を認めたクロアチアであったがその姿勢は積極的とは言えず、国際社会から避難を浴びている。
ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦
ボスニア・ヘルツェゴビナは多民族国家であるユーゴスラビアの中でもとりわけ特殊な環境を構築している。国内には約40%のイスラム教信者がおり、セルビア人が30%、残りの20%がクロアチア人で構成されていた。現ユーゴスラビアとクロアチアの間に位置するボスニアは冷戦時代辛うじて民族の暴走をくい止めていたが、冷戦後一気にそのたがが外れこれまで歴史に蓄積されてきた憎悪が一斉に吹き出す結果となった。
1990年代に入り周辺共和国に独立の気運が高まると独立を目指すイスラム、クロアチア両勢力とセルビア人勢力が対立し戦闘が激化。三大勢力による民族浄化合戦が展開した。この結果20万人の死者と200万人の難民が発生し国際的な問題に発展した。その結果1995年にアメリカ軍を中心とする多国籍軍がコソボのセルビア人武装勢力の基地に空爆を行い甚大な被害を受けたセルビア人勢力は瓦解。アメリカの強力な主導により3勢力は平和調停に調印した。民族浄化の名の下に行われたユーゴスラビア最大の紛争はこうして終結。現在は一つの主権国家ながらボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国の2つの国家で構成されボスニア連邦から2人、セルビア人共和国から1人の国家元首が選出され8ヶ月交替で任に就いている。

現在ボスニア・ヘルツェゴビナにはNATO軍主体のIFOR(平和履行部隊)から任務を引き継いだSFOR(平和安定化部隊)が駐留を開始。現在でもボスニアの情勢が不安定なことから駐留は延期され1998年には2度目の統一選挙が行われた。セルビア人共和国側では強硬派で知られるポプラシェン氏が当選するなどまだまだ余談の許さない状況は続いている。
コソボ紛争
ユーゴスラビア南部に位置するコソボ自治州では住民の9割がアルバニア系で残りがセルビア人という偏った構成になっている。チトー政権時にはアルバニア人に自治権を与えていたが少数民族に自治権は不要と考えたセルビア人勢力とコソボ自治州の共和国への昇格を望むアルバニア人が対立。1987年にユーゴスラビア大統領に当選したスロボタン ミロシェビッチがこれまでの連邦方針を一変させ連邦権限の強化を開始。実質セルビア人の独裁となるこの方針にコソボをはじめとする周辺共和国は反対したが、多数派のセルビア人の圧倒的な支持を受けてこれを強行した。その頃アルバニア住民はコソボ共和国を樹立し憲法を制定。1996年にはコソボ解放戦線(KLA)が活動を強めコソボ自治州内のセルビア人及びそれを支援保護するユーゴスラビア連邦軍との武力抗争に発展していく。

クロアチア、スロベニアなど反対しながらもこれらの独立を認めてきたユーゴスラビアであったが、コソボ自治州だけはそれらとは事情が違っていた。14世紀にこの地は中世セルビア王国の中心でありセルビア人の信奉するセルビア聖教の教会や遺跡が数多く存在するセルビア人の聖地とも呼べる場所であった。
17世紀以降、オスマントルコ支配時代にはコソボのセルビア人は宗教的迫害や弾圧を受けコソボを離れる。その後コソボに入植したのがイスラム教に改宗したアルバニア人であった。従って現在のコソボはセルビア人の聖地であり正統な所有地であると考えられている。
一方アルバニア人も6世紀には祖先であるイリュリア人がコソボに住んでいたと考えどちらにとっても帰還すべき約束の地と考えられていた。これら宗教、民族的執着がこの地域での紛争を一層厳しいものとしていた。
この紛争の中、少数派で軍備の乏しいアルバニア人勢力はユーゴスラビア連邦軍の苛烈な攻撃を受け90万人に及ぶ難民を出した。ミロシェビッチ大統領はこの民族浄化作戦を進めアルバニア住民に対する虐殺や婦女子に対する暴行も横行した。

1999年3月24日、NATO軍は90万人に及ぶアルバニア難民を救うべくユーゴスラビアに対して空爆を開始。ユーゴスラビアに大規模な空爆が行われ多数のセルビア民間人が死傷した。またアメリカ軍のハイテク空爆機が誤爆を繰り返し中国大使館をも爆破するなどハイテク兵器の存在に陰りも見えた。この空爆によりユーゴスラビアは1999年6月20日、コソボ自治州から完全撤退した。この撤退に対し少数で残されたセルビア人はアルバニア人の報復行動を恐れ逆に難民としてユーゴスラビアに流入した。

コソボ問題はこの後ミロシェビッチ大統領がアルバニア人虐殺を指示したとして国際戦犯法廷に起訴される事になった。また国連制裁などでユーゴ国内は飢餓状態に陥った。一方コソボでは武装集団KLAの解体、政治体制の構築などまだまだ問題が多く残っている。

2000年9月民主野党連合のコシュトニツァ大統領が誕生すると90万人に及んだアルバニア系難民は帰還を果たし2000年11月には新ユーゴスラビア(セルビア・モンテネグロ)が国連に加盟。欧州保安協力機構の資格も取り戻し徐々に国際社会への復帰をはじめている。しかし一連のコソボでの紛争により発生したセルビア人難民や少数民族のロマ(ジプシー)系民族の難民問題が未処理であり、コシュトニッツァ政権の命題となるだろう。
ユーゴスラビアの歴史
1945年 11月 旧ユーゴスラビア連邦成立
1968年 コソボのアルバニア人が共和国昇格を求め暴動
1981年 不況によりアルバニア系住民が暴動
1989年 セルビア共和国憲法修正。コソボ自治州の権限縮小
1990年 アルバニア系議員独立を一方的に宣言
1991年 コソボ共和国樹立宣言 
クロアチア共和国独立宣言
アルバニア共和国独立宣言
ボスニア・カントン化案(スイス型連邦国家構想)
10月14日 主権国家決議をセルビア人勢力抜きで行う。
1992年 セルビア共和国、モンテネグロ共和国が新ユーゴ設立。
2月 ボスニア独立住民投票強行開始(セルビア人勢力は参加拒否)
3月 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国独立宣言。以降ボスニア全土でセルビア人、クロアチア人、ムスリム人(イスラム教徒)で三つどもえの内戦勃発。ユーゴスラビアはボスニア国内のセルビア人を保護するためにセルビア人治安部隊を投入。
1994年 ムスリム人(イスラム教徒)とクロアチア人でボスニアを連邦国家化することで合意。
7月 連絡調整グループによりボスニアの分割化による新和平案提示。
セルビア人勢力がこれを拒否。
1995年 5月 NATO軍ボスニアに軍事介入。セルビア人勢力拠点に空爆開始。
11月 ボスニア全土で停戦合意。アメリカオハイオ州で和平交渉スタート。
12月 和平協定調印
1996年 コソボ解放戦線(KLA)活動活発化
1998年 セルビア治安部隊がKLA掃討作戦を開始。
1998年 9月 国連が安保理採択によりユーゴとアルバニア系武装組織に即時停戦を求める。
10月9日 KLA停戦受諾
10月13日 ミロシェビッチ大統領国連決議遵守で合意。以降不履行に。
10月24日 KLA停戦破棄、同時にセルビア人治安部隊が攻撃を開始。
1999年 連絡調整グループの仲介によりコソボでの和平成立。ユーゴ国際社会へ復帰。
3月10日 ミロシェビッチ大統領国連平和維持部隊のコソボ駐留拒否。
3月24日 NATO空爆を開始。アドリア海からアメリカ軍空母航空部隊、巡航ミサイルによるセルビア人部隊への攻撃。
4月5日 NATO軍アレクシナツで民家を誤爆
4月12日 グルデリツァで旅客列車を誤爆
4月14日 ジャコビツァで避難民の車両を誤爆
5月1日 ルジャネで路線バスを誤爆
5月7日 首都ベオグラードで中国大使館誤爆
6月10日 NATO軍空爆停止。ユーゴスラビア連邦軍コソボ撤退開始
2000年 9月 ミロシェビッチ政権崩壊。以後逮捕され国際戦犯法廷へ
9月 コストニッツァ政権誕生
11月 国連加盟
■民族浄化
他民族を自国領土より虐殺、追放することで根絶やしにし、単一民族による国家を作る思想。ボスニア、コソボなどで行われ多くの犠牲者が出ている。

■ムスリム
1971年に民族として認められたユーゴスラビアのボスニアに分布するイスラム教徒でセルボ・クロアチア語を母国語とする。

■南スラブ人
セルビア人、クロアチア人、スロベニア人。1918年にセルビア人クロアチア人スロベニア人王国を誕生させる。

■セルビア正教
1054年に分派したキリスト教東方宗教(正教)の一つ。カトリックとは違い法王を持たず独自の言語による教典を作るのが特徴で他にロシア正教、ギリシア正教などがある。

■スロボダン ミロシェビッチ
1941年セルビア人として中部の町ポジャレバで生まれる。18歳で共産党同盟入党。ベオグラード大学法学部を卒業し銀行頭取などを務め82年にはセルビア党議長、87年に共和国幹部議長を務め97年にユーゴスラビア大統領就任。セルビア人を支援し民族浄化をしたとして現在戦犯法廷で審議中。