キプロス紛争
地中海に浮かぶ島キプロスは冷戦時代ソ連南下を防ぐための反共の砦として重要視されていた。アジア、アフリカ、ヨーロッパ大陸に囲まれた要衝で紀元前1600年頃から交易都市として発展。当時はギリシャ人が多く居住していた。しかし1571年にオスマントルコ帝国に占領されるとトルコ人が流入した。
1821年のギリシャの対トルコ独立戦争によって勝利を得た事によりキプロスでもギリシャへの統合を求める声が高まりエノシス運動と呼ばれる統合運動に発展していく。
第一次世界大戦後にはイギリスがスエズ運河防衛の軍事拠点とするためキプロスを直轄植民地に決定したがキプロス解放民族組織(EOAK)が反英テロなどが頻発。
この結果1960年に英連邦所属のキプロス共和国として自治独立が始まるとそれまで押さえ込まれていた国内での民族問題が噴出していくことになる。
キプロスの初代大統領に就任したギリシャ正教の大司教マカリオス3世は1963年に憲法修正を行いトルコ系住民の権利を縮小。これ以降人口の80%を占める多数派のギリシャ系住民が政治的、経済的地位を独占、人口の19%であるトルコ系イスラム教徒はこれに反発し分離独立を目指して内戦が激化していく。
1974年にはギリシャ軍介入による軍事クーデターが発生した。これに対してトルコ政府は島内のトルコ系住民保護の名目でトルコ軍を派遣。この代理戦争勃発により首都を中心に島内が2つの勢力に分かれギリシャ系住民は南部、トルコ系住民は北部に移動した。
1983年には北部トルコ系住民が北キプロス・トルコ共和国の樹立を宣言。首都ニコシアは中央部を境に鉄条網と土嚢で分断されこの結果キプロスは世界最後の分断都市となった。これ以降も小規模な虐殺などが発生し次第に両者の憎悪は深まっていく。1997年には南部のギリシャ人国家キプロス共和国がロシア製の地対空ミサイルを36基購入しこれを警戒したトルコ政府は武力行使を警告。1998年にはキプロス島にギリシャ軍とトルコ軍が戦闘機部隊を派遣し大規模軍事衝突の緊張が高まった。これに対してギリシャ国防省のツォハツォホプロス国防相がアメリカを訪問。その後キプロス両政府の首脳会談が実現しこの結果ミサイルの配備は中止され危機は回避された。
現在は国連主導の和平調停が行われ双方が自治を行う連邦国家としての存続を提案している。しかし北部の豊かな穀倉地帯を維持したいトルコ側の思惑もあり互いの主張は平行線をたどっている。
キプロス島の保有問題はエーゲ海などに広がる無人島の領有問題にも繋がっておりトルコ、ギリシャの一連の問題に解決策は見えていない。