イラン・イラク戦争
イラン・イラク戦争は1980年から1988年の8年間に渡り両国間で行われた大規模な戦争である。アラブ人国家イランとペルシア人国家イランの民族対立の歴史は古く、イスラム起源のアッパース朝まで遡る。アッバース朝は現在のイラクの首都バグダッドを中心に繁栄した文化でペルシャ人イスラム教徒によって支えられた。以来民族間の対立が続き現在に至る。現在のイランとイラクの宗教状態は異民族ながらイスラム・シーア派が過半数以上を占めておりイラクは約65%、イランでは95%の国民がシーア派を信奉している。しかしイラクでは少数派のスンニ派が国家中枢を独占しており、イラク国内のシーア派の存在はイラクとイランの関係にとって憂慮すべきものとなっている。20世紀に入るとこの民族間、宗教間の対立に石油利権問題が絡みさらなる混迷を極めていく。

イランはイラン高原を中心とする国でパーレビ王朝をその起源とする。1979年のイラン革命以降ホメイニ師が先頭に立ちイスラム原理主義に基づく国家体制を強化していく。一方イラクはチグリス・ユーフラテス川が形成するメソポタミア平原で発展した国家で1932年にイギリス統治領から独立した。
両国はチグリス・ユーフラテス川が重なりペルシャ湾に流れ出る地域、シャトル・アラブ川の領有権を巡り小競り合いを繰り広げてきた。アラブ川の領有権を主張するイラクがイランに侵入しこれらの地域を占領下に納めた。しかし1975年にイラク国内のクルド人にイランが軍事援助を行わない事とアラブ系住民の多いイラン・フゼスタン州
の領有を条件にアラブ川の領有権を放棄するという議案を提出。利害の一致した両国はこの案に合意し協定が結ばれた。

しかし1978年にイラン国内で起こったシーア派の革命「イラン革命」が起こるとイラク国内のシーア派の動向を懸念したイラク、バース党がアラブ川に関する協定を無視して空爆を開始。当初、イラク軍が優位に立ち、イラン軍は領内深くへ撤退するが次第にイランが戦況を覆し1982年以降は逆にイラン軍がイラク領内に侵攻を開始した。これに対してイラン、イスラム原理主義の波及と台頭を懸念したアメリカや周辺アラブ諸国などがイラクを援助。本格的な戦争状態に突入した。イラクはこの戦争で国際法を無視し大量の生物化学兵器を使用し多数の死者を出している。国際社会はアメリカを中心に事態を黙認し結果イラクの製造した化学兵器が紛争地帯に拡散する結果となった。アメリカの支持によりイラクは状況を打開。イラン領土を占領下に納めていった。

国連はこの戦争に対し1988年即時停戦の国連採択を決議し両国はこれを受け入れようやく停戦が実現した。イラクのフセイン大統領はクウェート侵攻を契機に対イラン政策を軟化、イランの領土返還と捕虜交換に応じた。また国連では1991年にイランの主張を受け入れイラクの戦争責任を認める採決を可決。徐々に両国の接触も再会され始めているが、戦後賠償問題、クルド人問題など未解決の問題も山積している。
■イラン、イラクの国勢

イラン
(イラン・イスラム共和国)
イラク
(イラク共和国)
首都 テヘラン バグダッド
主要民族 ペルシャ人 アラブ人
言語 ペルシャ語 アラビア語
宗教 イスラム教(シーア派)他 イスラム教(スンニ派、シーア派)
指導者 ホメイニ師〜ハタミ師 サダム・フセイン大統領