イスラエル・パレスチナ問題
イスラエルとパレスチナ、ユダヤ人と中東諸国の軋轢は長きに渡って世界の悩みの種となっている。ユダヤ人は紀元前10世紀頃に古代王国を建国するがアッシリアとバビロニアの侵攻により滅ぼされる。その後ローマ帝国に支配されるが反乱を起こしユダヤ人国家は消滅する。
以来2000年以上に渡り民族離散の状態になり世界各地にその生活の場を求めていった。19世紀後半になるとユダヤ人のユダヤ国家建設の意識が高まり、旧約聖書にある「神から約束された地」と記されるパレスチナの地を建国地と考えるようになっていった。一方ユダヤ人が離散後にパレスチナの住人になっていたアラブ系のパレスチナ人は何世紀もの間この土地に住み生活を続けていた。
第一次世界大戦中にイギリス政府はオスマントルコへの対抗戦略として当時のアラブ諸国の盟主に対して1915年、独立国家建設を承認「フサイン・マクマホン条約」を締結する。同時に聖地への帰還を望むユダヤ人に
対して「バルフォア条約」を結びユダヤ国家再建を約束した。この二重外交政策は後の紛争の元となっていく。
第二次世界大戦にナチスドイツによって行われたユダヤ人の大量虐殺ホロコーストを経てユダヤ人の国家建設の意識は極限まで高められていく。1948年イギリスはこれらの問題解決を放棄する形で国連採決に委ねる。結果パレスチナを分割しアラブ人国家とユダヤ人国家を建国することを決定した。
これに対しパレスチナ人はヨーロッパで発生したホロコーストの償いを何故中東のアラブ人がしなければならないのかと感じユダヤ人に対する憎悪を深めていく。

ユダヤ人国家イスラエルの建国に対して当時独立を果たしていた中東諸国は同胞であるアラブの民パレスチナ人を支持していく。1948年、アラブ諸国は建国間もないイスラエルに対して軍事行動を開始。第一次中東戦争が勃発した。しかしイスラエル軍の決死の攻撃の前にアラブ諸国は撃破され圧倒的有利と思われたアラブ諸国は敗れ去っていく。この結果パレスチナ人側に多数の難民が発生した。これ以降アラブ・パレスチナ人によるテロ事件が頻発していく。
第三次中東戦争
1964年パレスチナでは、高まる民族自決意識の中、パレスチナ民族会議がエルサレムで開催されPLO、パレスチナ解放戦線が樹立される。パレスチナ政治組織各派を統合したこの集団は武装闘争を展開。イスラエルへの本格的なテロを開始した。PLOのゲリラ攻撃に対しイスラエルは電撃的な侵攻作戦を開始。第三次中東戦争が勃発する。(1956年の第二次中東戦争は英米とエジプトの問題)。6月戦争とも呼ばれるこの戦闘でイスラエルは圧倒的勝利を収めヨルダンの統治下にあったエルサレムの東側とヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領し領土を一気に拡大した。これ以降パレスチナは自治区となりユダヤ人によるアラブ人支配の構図が新たに加わる。これらの地域に対してイスラエルはユダヤ人の入植を開始。パレスチナ人に対するイスラエル軍、警察による苛烈な弾圧が加えられていく。一方のPLOはこれら入植地に対して爆弾テロを実行。イスラエル情報機関モサドや軍との泥沼の闘争を続ける。
第三次中東戦争後のイスラエルの国土。黄色で示したエリアは建国時の領土で第三次中東戦争ではエジプトからガザ地区を含むシナイ半島全域、ヨルダン領であったパレスチナ(ヨルダン川西岸地区)、シリア領のゴラン高原を入手。
現在のイスラエル領土。シナイ半島をガザ地区を残してエジプトに返還。ガザとヨルダン川西岸のエリコにパレスチナ人の自治を認める。

同じ頃イスラム原理主義国家であるエジプトではパレスチナを解放する気運が高まりイスラム国家建国の理念の元イスラム抵抗運動組織「ハマス」が結成される。ハマスはムスリムの同胞団の流れをくむ集団でユダヤ人のアラブ地域からの根絶を掲げ無差別テロを中心とした武装闘争を展開した。
1987年になるとパレスチナ人のユダヤ人支配に対する不満が爆発しガザ地区やヨルダン川西岸で大衆が蜂起を開始する。これらの闘争はインティファーダ(反イスラエル抵抗闘争)と呼ばれPLOとイスラエルの戦闘は更なる混迷を深め両陣営に対して対話路線の必要性を認識させる。
1993年に入りこれらの問題に比較的無関心を装っていたアメリカが両代表をワシントンに招き、和平とパレスチナの暫定自治を記した原案に調印をさせることに成功した。オスロ合意と呼ばれるこの歴史的調印はPLOを武装組織から政治組織へと変革させ共存の道を探る話し合いが始まることになった。しかしこの妥協案ともとれる合意にハマスなどの原理主義グループが猛反発しテロが多発して行く。これらのテロ行為に対してイスラエルは徐々に軟化姿勢を諦め1996年には右派政党から強硬派のネタニヤフ首相が選出され和平交渉を凍結した。
さらに2001年強行派のシャロン首相が就任するとイスラエルのパレスチナに対する姿勢は一層硬化しテロと報復攻撃の連鎖状態に陥った。一旦は和平合意にこぎ着けた両国であったがイスラエルは長年PLO指導者として交渉相手にしてきたアラファト議長をテロ指導者と再認識するなどこの問題がまだまだ混迷を極めていることを証明した。
2002年には度重なるテロからイスラエル軍がパレスチナ自治区に侵攻し武装ヘリと戦車でPLO潜伏地などに攻撃を開始した。これにより歴史的な成果となるはずであったオスロ合意は完全に無力化しパレスチナ側もイスラエル国内での自爆テロを頻発さ報復合戦が現在も続いている。
両陣営が主張するエルサレムの帰属問題なども未解決で現実的にはパレスチナ国家の樹立はあり得る物のその結末は未だ見えていない。

聖地エルサレム

エルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地として知られユダヤ教を信奉するユダヤ人にとってはイスラム教徒であるパレスチナ人から取り戻すべき土地であった。一方のイスラム教徒にとってもこの地は聖地であり、エルサレムを巡る問題が両国の対話を遅らせる大きな要因になっている。イスラエルはエルサレムを占領後に永遠の首都として定めたが国連はこれを承認せず国際舞台では実質的中枢のあるテルアビブを首都としている。一方パレスチナ人も独立しパレスチナ国家を建国した暁にはエルサレムをを首都とすることを望んでおりエルサレムの帰属が決定しない限りは両国の和平は実現しないと行っても過言ではない。またイスラム教を国教とする中東諸国にとっても重大な問題となっている。

ホロコースト

ホロコーストとはギリシア語でホロ=「焼く」コースト=「尽くす」に由来し「火による皆殺し」を意味する。ナチスドイツ政権下のドイツでヒトラーはアーリア人優越主義を唱え多くの少数民族や遊牧民の他、600万人のユダヤ人が虐殺された。

イスラエルと中東の歴史
紀元前
1000年〜
紀元1世紀
エルサレムを中心にユダヤ教徒の王国があったとされている
16世紀〜 パレスチナ、オスマン帝国の支配下に。
1897年
前後
ヨーロッパで拡大するユダヤ人排撃運動に対しパレスチナへの移住が開始。スイスのバーゼルでジャーナリストテオドール・ヘルツルが世界シオニスト機構を発足させユダヤ人の独立国家建設を目的としたシオニズム運動を展開。
1915年 フサイン・マクマホン協定
第一次世界大戦時にイギリスがアラブの指導者シャリフ・フサインと交わした協定で現在のイラン、イラク、レバノン、ヨルダン(パレスチナ)、シリア、サウジアラビア、カタール、などの中東地区をアラブ人国家として独立させるかわりにオスマントルコに対して反乱を起こす事を確約させた協定。

バルフォア宣言
イギリスがユダヤマネーを戦争に利用するためにユダヤ人に向けて発表したものでパレスチナでのユダヤ人国家建設を約束

二枚舌外交によって第一次世界大戦は勝利したがアラブ人に対する協定は遵守されず、アラブ人国家になるはずのパレスチナにユダヤ人が入植を始める。
1916年 サイクス・ピコ協定
オスマントルコの分割案で現在のシリア、レバノン周辺をフランスがそれ以南イラク、イラン、パレスチナなどをイギリスの勢力圏とする協定。
1918年 パレスチナ、イギリス統治領になる。
1920年 パレスチナでユダヤ人移民とアラブ人の対立が深まる。
国際連盟結成
1933年 アドルフヒトラー、ナチス党で政権獲得
1939年 第二次世界大戦勃発 ナチスドイツによるユダヤ人虐殺はじまる。
1947年 11月 パレスチナ分割決議
パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家の分割統治としエルサレムを特別管理区域とする決議。これに対してユダヤ側は受け入れを承認したがアラブ側が拒否。
1948年 5月 パレスチのナユダヤ人入植者突如イスラエル建国を宣言。アメリカは即日承認。同時にアラブ国家がイスラエルを攻撃開始。
第一次中東戦争
イスラエル建国宣言の翌日に勃発。圧倒的不利とされていたイスラエルが勝利し多くのアラブ人が難民となりパレスチナを追われる。
1964年 パレスチナ解放機構(PLO)結成
1967年 第二次世界戦争(スエズ戦争)
米英が企画したスエズ運河のダム建設計画をめぐっての戦争。エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を発表。これに反対するイギリス、フランス、イスラエルが出兵し戦争となる。1957年に国連の停戦決議等により西側諸国は撤兵し終戦となった。
1967年 第三次中東戦争(六日間戦争)
イスラエルに対して行われたアラブ連合国家の戦争。イスラエルの優れた情報収集能力と空軍を使用した電撃作戦によりアラブ側の大敗。この結果領土を大きく拡大。エジプト領シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン領パレスチナ、シリア領ゴラン高原などを取得。
パレスチナ地区から焼け出された難民がイスラエルに対して武装闘争を開始。この時からパレスチナのアラブ難民は自らをパレスチナ人と呼称するようになる。
1968年 パレスチナ武力勢力の最大組織ファタハはイスラエル軍の侵攻をアルカメーラの戦いで撃退。この結果ファタハ指導者ナセル・アラファトが後のPLO議長に選出される。
1973年 第四次中東戦争
別名10月戦争。先の戦争で領土を失ったエジプトとシリアがイスラエルを攻撃。この戦闘は西側諸国にオイルショックをもたらし経済的大打撃を受けた。イスラエルは当初苦戦を強いられるが反撃を成功させ10月23日には停戦となった。

アラブ首脳会議、国際連合、PLOをパレスチナの公式政治組織として承認し、アラファト議長を正式の代表と認める。
1979年 エジプト、アラブ国家としてはじめてイスラエルを国家と認め国交を結ぶ。
1988年 パレスチナ国家樹立宣言
1993年 オスロ合意
ノルウェーのオスロで開かれたパレスチナとイスラエルの歴史的和平会談。ガザ地区とエリコ地区に自治を認める。
1996年 パレスチナ暫定自治政府発足
2000年 イスラエルとPLO武力衝突。和平交渉暗礁に乗り上げる。
2001年 イスラエル首相にシャロン選出
2002年 イスラエル軍、パレスチナ自治区に侵攻。イスラエルとヨルダン川西岸地区の境界に対して360kmに渡る巨大な塀の建設を開始。一部隔壁はパレスチナ側に入り込み問題化。
2003年 パレスチナ武装グループ、イスラエル全土で自爆テロを活発化。