レバノン内戦
レバノンの勢力図。黄色はシリアから軍事支援を受けているキリスト教マロン派の勢力域。緑のエリアは各宗派が混在するエリア。赤は2000年5月までイスラエル軍がPLOなどの流入を防ぐために支配した安全保障地域。

イスラエルの北部に位置するレバノンは地中海に面する小さな国家でゴラン高原を挟んでイスラエルに隣接している。レバノンは古来よりアジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ交易と交通の要所としてその時代ごとにギリシャ、ローマ帝国、十字軍などの侵略の対象となってきた。また国内に存在する2つの山脈(レバノン山脈、アンチレバノン山脈)は有史以来宗教異端者の隠れ里になっていた。このためこの隠棲地を中心に独自の文化形態を育んでいくことになる。キリスト教ロマン派、イスラム教ドルーズ派に代表される宗派の他ギリシャ正教、キリスト教、アルメニア聖教、イスラムシーア派など多数の宗派が存在している。この様な時代背景の中レバノンでは様々な政治宗教対立が繰り返されていった。

第一次世界大戦が終わるとこの時占領地としてレバノンを領有していたフランスがレバノンの独立を承認。その際に隣国シリアとの国境線を定めキリスト教徒の人口が多くなるように国境線を調整した。これは各宗派が集まってできたレバノン国民協約の中に宗派の人口の多い順に国会議席を定めるという法案があり、フランスはキリスト教信者が人口の多くを占めるように調整を図ったのであった。
この結果レバノンは中東地区で唯一のキリスト教民主主義国家となり中東地区では例のない発展を遂げた。首都のベイルートはフランス文化の影響を多大に受け「中東のパリ」と呼ばれるほどの華やかさを持っていた。しかしその後中東各国からイスラム教徒が大量に流入し人口比率は一気に逆転の方向に変わっていく。この結果政権交代を恐れたキリスト教マロン派の議員は人口統計調査を行わずイスラム教徒の権力委譲要求は武力闘争に変わっていく。

1958年に入るとキリスト教マロン派とイスラム教ドルーズ派は武力衝突を繰り返すようになっていた。1970年にはヨルダンを追われたPLO(パレスチナ解放戦線)が事務所を置きキリスト教徒の反感をかった。1975年には遂に内戦が勃発し中東のパリと呼ばれたベイルートは廃墟と化していく。1976年にはキリスト教議会が隣国シリアに対して支援を求めこの結果停戦が成立。シリア軍が平和維持のための駐留を開始した。一方レバノンに拠点を構えたPLOはそれまでに組織力と資金力を増強しレバノン南部のイスラエル国境地帯から越境しイスラエルにゲリラ攻撃を敢行した。1982年にはこれらの行為に対してイスラエル軍が侵攻しPLOを排除。レバノン南部をイスラエルの占領下に置いた。
1982年8月には国連PKFが派遣され海兵隊を中心とした平和維持軍が展開したが、相次ぐテロ攻撃で海兵隊は400名の死傷者を出し18ヶ月後には撤退を余儀なくされている。
これによりレバノン内戦は一端終結を見たと思われたが南部に多数住んでいたイスラム教シーア派住民がこの戦争で多数の被害を受け、異教徒のイスラエル軍に対して武装闘争を決意。反イスラエル武装組織「ヒズボラ」を結成。武装闘争が開始された。一方ベイルートを中心としたレバノン北部では1989年に再び停戦が発効されキリスト教とイスラム教の宗教対立は一応の終結を見ることとなった。
レバノンに駐留するシリアは依然強い影響力を維持したが反シリア勢力が解放戦争(アウン将軍の解放戦争)を仕掛けシリアと戦闘状態になった。しかしシリア軍の前に反シリア勢力は敗れ去りシリアはレバノンに対する影響力を現在も維持している。

1989年になりレバノンではタイフ合意の元、両宗教が互いに協力して国家を作ることで合意。90年代に入り急速に復興への意欲が高まるつつある。またイスラム教徒の議会参政の拡大も合意され宗派を超えた国家の建設を始めている。今後の問題は駐留するシリア軍の対処で独立国家としての最後の障害となっている。