イエメン内戦
|
|
|
駆逐艦コール自爆テロ |
イエメンは中東アラビア半島の突端に位置する国家で東西文化の交易点として栄えてきた。16世紀以降はオスマントルコ帝国の支配を受けるがその後イギリスがアデンを中心とする南イエメンを保有し残りをイスラム教徒シーア派政権が支配した。北イエメンは1962年共和制に移行し南イエメンは1967年にイギリスから独立した。南イエメンはその後ソ連と接近し社会主義体制に移行した。ソ連社会主義体制崩壊の足音が聞こえ始めた1988年に南北の融和をはじめ1990年統一宣言により統合を果たすことになる。南イエメンは1993年4月にはq複数政党による総選挙が実施されサハレ大統領のGPC(国民全体会議)、ビード副大統領のイエメン社会党(YSP)、イスラム改革党(IIP)が連立政権を発足した。 |
政策は豊かな北イエメン出身のサレハ大統領の主導で行われ経済政策などの面で北優遇政策が行われていった。このため旧南イエメン出身のビード副大統領派は石油により外貨獲得を行っているのは旧南イエメンにもかかわらず経済的支援が少ない事に不満を覚え対決姿勢を強化。閣議をボイコットしアデンに帰還した。
1993年7月には政権が分断され1994年には旧派所属の武力集団が互いの拠点を空爆するなどし大規模な内戦に突入した。
この事態を憂慮したアラブ連盟は1994年5月にエジプトのカイロで緊急会議を開きエジプト軍による平和維持部隊の派遣を決定したが両勢力はこれを拒否。5月21日にはビード副大統領が南イエメンの一方的な独立を宣言する事態に至った。以降国連、ロシアなどが介入し停戦の努力を続けるも内戦は激化の一方であった。しかし人口比率、兵力で圧倒的に差のある北イエメン派勢力は7月に大攻勢をかけ南イエメン派の根拠地アデンを制圧。その後も次々に重要施設を確保し湾岸諸国も南イエメンの独立を承認しない判断を決したため政治的不利を悟った南側政府は戦闘を中止。内戦は終了した。この内戦によって数万人の市民が死亡した。また終戦後も経済的な問題から南の治安が悪化し外国人の誘拐や暴動が発生するなどしている。 |
旧北イエメン
イエメンアラブ共和国。オスマントルコ占領下で独立。1962年のクーデターで王制が廃止され共和体制に移行。アラブ諸国の支援を受け1963年に国連に加盟。
旧南イエメン
スエズ運河開通によりイギリスが直轄植民地として誕生させた。大小の首長国を統合して1959年に南アラビア首長国連邦として生まれる。1965年にはイギリスからの独立を求めるテロが相次ぎ1967年にはイギリス軍が撤退。独立。北よりも多い油田を持ち現在のイエメンの主要財源にもなっている。 |