グレナダ侵攻
ベトナム戦争以降大規模部隊の投入を控えてきたアメリカ軍であったが、東カリブ海に位置する島国グレナダで軍事クーデターが発生。革命軍辞表議会が設立され、元軍人のハドソン・オースチン司令官を中心とした革命政権が樹立。24時間の外出禁止令が発効された。CIAの調査で彼ら評議会を援助しているのはソ連とキューバであり、北中米地区に対してキューバに次ぐ共産化の一大拠点を構築しようとしていた。島内にはキューバ軍が駐留し塹壕を構築。またグレナダに対してソ連経由の軍事援助を行っていた。これに対してレーガン大統領はグレナダに法秩序と民主主義の回復を目的とした軍事行動を起こす事になる。

1983年10月25日レーガン大統領は、現地人の新政府構築と現地アメリカ人支援、保護のためにグレナダにアメリカ軍を派遣。すでに首相を含む閣僚数名が射殺されており、革命政権が第二のキューバとなるのを懸念しての対応だった。
とくに心配されたのが、米国籍を持つセントジョージ、トゥ・ルーブルー両医科大学の医学生600名と総督サー・ポール・スクーンズの救出であった。
実行部隊にはアメリカ陸軍レンジャー部隊、特殊部隊、海兵隊、海軍特殊部隊SEAL、空挺部隊などに加え艦艇、航空機など多数が動員され作戦名「アージェント・フュリー(押さえきれぬ怒り)」作戦と命名された。

海軍特殊部隊SEALが総督邸の奪還作戦を担当し各レンジャー部隊と航空支援部隊は空港占拠及び医学生の救出。また海兵隊がそれらの支援を担当。
10月25日第24海兵水陸両用団がパールズ空港に攻撃を開始。またキューバ軍が守る建設中の軍事空港ポイント・サリネスにもアメリカ軍レンジャー部隊2個大隊(第一レンジャー大隊、第二レンジャー大隊)が投入された。空港での戦闘は激戦となりキューバ軍の精鋭600名とレンジャー部隊の銃撃戦が展開された。
レンジャー部隊は空港を制圧するとそのまま医学校へ向かい学生の救出を行ったが、目標にたどり着くまでに散発的な戦闘を繰り返さなければならなかったが作戦はアメリカは周到な準備と電撃作戦により空港、大学、刑務所などの各拠点を制圧。作戦は大成功となった。しかしこの作戦に於いて嵐の中に降下したSEALの偵察隊員が数名犠牲となり、特殊部隊の運用方針を改めて考え直す意見が浮上する。

戦闘終了後CIAはグレナダ革命政府が共産化とアメリカに対する軍事施設建設を予定していた資料を押収。またこれらの事件にソ連が関与している事も判明した。この他二重スパイの存在も発覚するなどし結果的にソ連は中南米における活動の方針転換を余儀なくされた。
軍事的にも政治的にも成功に終わったこの作戦はアメリカ軍に残っていたベトナム戦争の敗北感を僅かながら回復する要因となった。