パナマ侵攻

パナマはかつてコロンビアの一部であったが1903年アメリカのパナマ運河建設計画のためにコロンビアから独立した国家である。中南米を結ぶ最も幅の狭い大陸にあるパナマはこれ以降パナマ運河の利権を巡る問題が始まっていく。この後アメリカはパナマ運河の主権を永久確保するが1977年には当時のカーター大統領がパナマ政府と運河に関する返還条約を締結。1999年12月31日をもってパナマ政府への返還を約束した。

1980年11月にはアメリカ大統領がレーガンに代わりパナマ運河返還を反対。カーター政権と条約を結んだ11月にはにトリフォス将軍の乗る飛行機が墜落し死亡するとアメリカ政府の方針は転換期を認める。CIAは後継者のノリエガ将軍を傀儡にパナマを再植民地化しようと試みるがノリエガはこの策に乗らず独自の国家路線を歩んでいく。レーガン大統領はノリエガ逮捕とパナマ在住のアメリカ人保護の目的で1989年5月に海兵隊1800人を派遣。しかしノリエガ将軍の逮捕には失敗する。

同年12月17日には新たに就任したブッシュ大統領がパナマへの大規模侵攻を決定。ノリエガ将軍の独裁政治に対して民主主義の確保、在留アメリカ人の保護、運河の安全確保、ノリエガ将軍の逮捕を目的とした。12月20日「オペレーション・ジャスト・コースト」が発動され500人のパナマ軍防衛隊に24000人のアメリカ軍精鋭部隊が殺到した。

パナマに基地を持ち軍事的にも優位な米軍は次々と目標を制圧。わずか1日で作戦の殆どが達成された。しかしこの作戦ではノリエガ将軍の逮捕が出来ず、以後特殊部隊によるノリエガ将軍の捜索作戦が展開される。この時、空港を監視していた海軍特殊部隊はCIAの情報ミスにより急遽入った命令で監視任務を放棄し空港に突撃を開始。小隊の半数が戦死するなどの失策が起こった。また同作戦では海兵隊の艦隊付対テロ部隊FASTが初めて投入された。

この後も散発的な戦闘は続いたものの、24日にはノリエガ将軍がバチカン大使館へ亡命。アメリカ政府はノリエガ将軍の身柄引き渡しを要求し翌年1月3日にはアメリカ軍に投降した。パナマ運河の利権争いから麻薬問題などアメリカ政府の策謀が巡ったこの作戦はノリエガ将軍の逮捕で幕を閉じたが、皮肉な事にパナマからの麻薬流入はノリエガ将軍逮捕後に2倍近くに倍増しこの作戦の真意は不鮮明なものへと変化していった。この作戦で米軍兵士23名が死亡。パナマ軍の戦死者は314名、民間人の死者は220名、負傷者は2万名に達した。